2006-03-20[n年前へ]
■「物語が作られる理由」と「虚無への供物」
今年1月までアレフ(旧 オウム真理教)の出家信者であったという松永英明氏が書かれたオウム・アレフ(アーレフ)の物語を、少しだけ読んだ。なぜ、「物語」と名付けつつ書くのだろうか、と不思議に思いつつ読んだ。なぜ、そんな風に不思議に感じたかというと、「物語」というのは結局のところ書き手のために書かれるものだ、という感覚が私にはあるからかもしれない。書き手自身、ないしは書き手と重なる何かを持つ人々に「物語」とが書かれて、そして届くことが多い、という単なる(あやふやな)経験則が私の心のどこかにあるからかもしれない。だから、「物語」と名付けられたこの文章が、誰に何のために書かれているかを、私は気にしてしまうのだろう。
この文章を少し読み、さらにまた他の方の感想を少し読んでいるとき、私はどうしても、中井英夫「虚無への供物」をさらっているような気分になってしまう。まるで、「虚無への供物」に登場する青少年たちの台詞を読み直しているような気分に襲われる。理不尽なできごとや物語の作り手や読み手や…、今回、あまりに似通った構図・言葉・文章をさらい直しているような気分になってしまうのは、一体なぜだろうか。
「物語」というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものであるかということを… 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」
2011-08-26[n年前へ]
■秋葉原近く「銭湯 燕湯」でタイムトラベルをしてみよう!?
秋葉原と御徒町の間に、知る人ぞ知る至高の銭湯「燕湯」があります。金閣寺が放火により焼失した1950年に建てられた燕湯は、国有形文化財にも指定されている趣がある古い建物で、第二次大戦後から今に至る歴史を感じながら湯につかり、そして、風呂上がりの汗を風に飛ばすことができます。
真夏の蒸し暑い日暮れ時、吹きだした汗を流し落とすために燕湯に行きました。その帰り道、町歩きのために掲げられている「現在の地図」と「1856年(安政3年)の周辺地図」を見つけました。1856年ということは、燕湯が建てられるよりさらに100年前、桜田門外の変が起き・日本が多くの大地震やコレラの大流行に襲われていた頃です。
今から150年以上前、今では幕末と呼ぶ時代が始まりつつあった安政3年に、燕湯がある場所はどこだったのだろう?と古地図を眺めてみました。すると、「下谷長者町 東叡山領」という辺りに燕湯は建っているように思われます。東叡山は、つまり、(京都の鬼門を叡山ー延暦寺 延暦寺ーが封じているのと同じく)江戸の鬼門を封じるために、南光坊天海が上野に建てた寛永寺です。・・・そんなことを考え始めると、燕湯の建物や湯の中に「数百年の歴史」が溶け込んでいるように感じられてきます。
燕湯は、早朝6時から夜の9時まで営業していて、もちろん、貸しタオルもありますから「いつでもぶらっと歴史の湯を堪能する」ことができます。汗が体中から噴き出す暑い夏、あるいは、手足が冷えてしまう冬の寒さの中で、上野から秋葉原近くで時間があったなら、銭湯「燕湯」に入り・歴史を感じてみるのはいかがでしょうか。