hirax.net::Keywords::「評論」のブログ



2008-08-03[n年前へ]

評論は何もできない実装しない人にまかせとけ 

 それが、ハードウェアでも、ソフトウェアでも、対して違いはない。「可能な条件下で作る」ただそれだけだ。実装する立場になってみれば、評論家・解説者みたいな曖昧で一般的な言葉は絶対に出てこない。たくさんの「条件」が決められてしまえば、嫌でもその条件に応じた最適解が決まってしまうものだ。そんなものだ。
 評論なんか何もできない実装しない人にまかせとけ。実装して、その動いた結果が全てだ。上手く動けばオッケーだし、上手く動かなきゃ、上手く動くまでやるだけだ。

  Iram Amayoa.

2009-08-24[n年前へ]

評論を書いたような形をつける人 

 北村薫の「北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書) 」から。

 前の誰かがいったことを引き、それにちょっとした常識的な反論をして、評論を書いたような形をつける人は嫌いだ。

2010-02-24[n年前へ]

評論・エッセイが届くのは「賢い人」(だけ)ではないのか? 

 鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」No.658 「物語という手段でしか届かないもの」から。

 たぶん、評論やエッセイで届けることができるのは、じつは、「賢い人」なんじゃないかと思っているのです。
 もっとガンコでもっと臆病でもっと弱くてもっと真剣でもっと壊れやすい人に届けるためには、物語という手段をちゃんと考えないといけないんじゃないか、と思いだしているのです。

 この記事原文では、「賢い人」には括弧がついていません。つまり、賢い人と書かれています。しかし、あえて、上の文章では括弧を付けました。

 そう改変した理由は、そうした方がより現実に近く・より普遍性を持つのではないだろうか、と私はそのように思うからです。そう思うので、括弧(カッコ)を上記文章に付加してみました。



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