2009-12-21[n年前へ]
■僕らが見たつもりになっている世界
森達也の(小中高生に向けて書いた)「世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー (よりみちパン!セ) 」から。
つまり物事は、どこから見るかで全然違う。なぜなら世の中の現象はすべて、多面的だからだ。
わかりやすさは大切だ。学校の授業だって、わかりづらいよりはわかりやすい方が良いに決まっている。でもね、ここで大切なことは、僕たちが生きている今のこの世界は、そもそもとても複雑で、わかりづらいということだ。
何かを撮るという行為は、何かを隠す行為と同じことなのだ。
もう一度書くよ。僕たちはメディアから情報を受け取る。そして世界観を作る。でもそのメディアの情報に、大きな影響力を与えているのも僕たちだ。メディアが何でもかんでも四捨五入してしまうのも、その四捨五入がときには歪むのも、実際の物事を誇張するのも、ときには隠してしまうのも、僕たち一人一人の無意識な欲望や、すっきりしたいという衝動や、誰かわかりやすい答えを教えてくれという願望に、メディアが忠実に応えようとした結果なのだ。
学生時代、写真館でアルバイトをしていた。結婚式の写真を1,2mmトリミング(切り取る)するだけで、ずいぶん違う写真に変わることに驚かされた。たった2人しか写っていない写真でさえそうならば、たくさんの人たちがいる世界を写したはずのものは、ほんの少しのトリミング次第で、どれほどに大きく変わってしまうものなのだろうか?
2009-12-26[n年前へ]
■「テレビニュース」=「私たち自身」
ふと、今日は、以前書いた文章を見直し、清書してみることにしました。
私は新聞記者が「起きた出来事を一人でも多くの人に一秒でも速く届けるという役割」を重視する姿勢はあまり価値があるとは思っていません。「起きた出来事」を明らかにするには時間がかかる以上、「起きた(と思われるが、その確からしさは決して高くない)ことを多くの人に速く届けてしまうという自らの判断」の必要性・危険性を「その書き手」はいつも疑い・考え続けるべきだと思います。そして、その必要性・危険性を考え続けながら、それでも、長い時間をかけて事実を明らかにしていく、というやり方が大事だと思っています。どれだけ、長い時間をかけても、です。
新聞記者たちが、そんな期待に応えてくれているかどうかどうかは疑問に思っています。少なくとも、長い時間をかけてみても、コストパフォーマンスが低ければ、仕事にはならないからです。
とりあえず、私たちの中にある(少なくとも私の中にある)刹那的な野次馬根性に対して、記者たちは私たちの野次馬根性・期待に対して100%以上の仕事をしていると思っています。
さて、次は新聞ではなく、テレビの話です。ただ、基本的には多少の差はあれど、とても似ている話です。
以前、「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?というアンケート結果を流すTVを見ました。その時、「テレビニュース」というものに対する(私たちの)イメージは、すべて自分たちの上に降りかかってくるに違いない、と確信しました。私たちのイメージの中にある「テレビニュース」という言葉はすべて「ぼくら自身」と全て置き換えられるに違いない、と思いながら「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?というアンケートへの答えが、刻々とTV画面に流れるようすを知人宅で眺めました。
「テレビニュース」が世の中に与える影響は? -> 悪い 「テレビニュース」は信用できる -> No 「テレビニュース」はあなたの人生にとって なくてはならないものですか? -> Yes
最後の質問まで眺め終わったとき、「テレビニュース」という言葉は、すべて「私たち自身」という言葉で全て置き換えられる、と確かに判断したのです。