2003-01-13[n年前へ]
■江戸から続く秘伝のタレ?
昔ながらのウナギが食べたい
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最近、少し貧血気味だったりする。こんな時はもちろんウナギを食べたくなるのである。美味しいウナギを食べたくなるのである。
そういえば、江戸時代から続く老舗の鰻屋などでは「ウナギを焼くときに使うタレは創業時から使い続けている」というように聞く。ウナギのタレを壷に注いで、使っては継ぎ足し、また次の日使ってはさらに継ぎ足して、二百年以上もその秘伝のタレを使い続けているということである。「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」というわけである。なるほど、そんな風に保たれている秘伝のタレは長い間熟成され続けて、さぞかし美味しいに違いない。江戸時代から守り続けられているタレはきっと栄養だって満点に違いないのである。もしかしたら、ワタシの貧血だって一発で直ってしまうかもしれない。
ところで、「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」とはいっても、もちろんそれは言葉通りの意味ではないだろう。その言葉が意味するところは、「江戸時代からの味の伝統を代々受け継いでいますよ」ということであって、言葉通りの「江戸時代にできたタレが目の前のウナギに塗られている」ということではないだろう。
とはいえ、そんな老舗のウナギを食べる方の心理からすれば「江戸時代の頃にできたタレが今でもその壷の中に残っているんじゃないだろうか?」と考えてしまったりもすることだろう。そして、二百五十年近く壷の中で熟され続けてきたそんな素晴らしいタレが自分の目の前のウナギにかかっているのではないか、と感じたりするに違いないのである。
果たして、そんな老舗の鰻屋の秘伝の鰻のタレの壷の中の何処かに、江戸時代に作られた「タレ」が今も潜んでいたりするものなのだろうか?江戸時代に調合されたタレの分子が、今も秘伝の壷の何処かに漂っているのだろうか?江戸時代にその壷に注ぎ込まれたタレに含まれている水分子(タレのほとんどは水だろう)が、今でもその壷の中でじっとワタシに食されるのを待っていたりするものなのだろうか?きっと、誰しもそんな疑問を持つことだろう。少なくとも貧血気味のワタシの頭はそんな疑問を持ったのである。そして、「江戸時代にできたタレの分子」をぜひとも食してみたい気持ちに襲われるのである。
そこで、江戸時代から続くような老舗の鰻屋の秘伝の「ウナギのタレの壷」の中に漂う「江戸時代にできたタレの分子数」を簡単に計算してみることにした。鰻屋が
- 創業時にある一定の容量の「ウナギのタレの壷」を満タンにして
- ウナギを食するお客一人当たり25ccほどのタレを使い
- 減った分を新しく作ったタレを注ぎ込んで補充し
- 壷の中身をよ~く撹拌して、次のお客に備える
赤:特大サイズの壷の場合 ( 容量3500リッター ) |
この結果を眺めると、中サイズの壷の場合は十年経たないうちに「創業(江戸時代)の頃にできたタレの分子」は壷の中からなくなってしまうことが判る。また、大サイズの壷の場合も七十年程でやはり同じように「江戸時代の頃にできたタレの分子」がなくなってしまっている。特大サイズの壷ではじめて、「江戸時代の頃にできたタレの分子」が今も壷の中に眠っているということが判るのである。
しかし、である。「じゃぁ、特大サイズの壷を使っている老舗の鰻屋に行けば良いのね」と簡単に納得してはイケナイのである。何しろ、この特大サイズの壷は容量が3500リッターもあるのである。つまりは、タレが重量3.5トンほども入っている超巨大な壷なのである。3.5トンの壷ってなんやねん、とツッコミたくなるもの当然の不自然きわまりない、ありえないようなサイズなのだ。それはほとんどほとんど貯水タンクと言った方が良いサイズなのである。つまり、言い換えれば普通サイズの壷を使う限りは「江戸時代にできたタレの分子」に出会うことはほとんど不可能だ、という結果になってしまうわけだ。非常に残念なのだが、「江戸時代にできたタレの分子」を食することはとても難しそうなのである。
とはいえ、それはあくまで毎日100人のお客が鰻を食べに来る人気の鰻屋の場合である。下に示すような、毎日2人のお客しか鰻を食べに来ない不人気の鰻屋の場合は少々事情が違うのである。特大サイズどころか中サイズの壷の中でさえ、ちゃんと250年経っても「江戸時代の頃にできたタレの分子」が残っているのである。ほとんど、客が来ず、そしてウナギのタレが消費されないがために、「江戸時代の頃にできたタレの分子」が必要十分すぎるほどに守られているのである。まさに「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」なのである。
赤:特大サイズの壷の場合 ( 容量3500リッター ) |
と書いてはみたものの、そんな不人気店が江戸時代から二百五十年以上も潰れずに残ってるかぁ、とか、そもそもそんな不人気店のウナギをおまえは食べたいのかぁ、とか、そもそもそこまで寝かされているタレはもう腐ってらぁ、という反論異論が出ないわけはなく、やはり非常に残念なのではあるけれど、「江戸時代にできたタレの分子」を食することはどうもできそうにない。
ところで、「鰻のタレの壷」ではないけれど、「継ぎ足して使い続けている」ようなものは他にも世の中に数多くある。例えば、「血液」なんていうものだってそうだ。秘伝のタレと同じように、私たちの体の中には毎日毎日新しい血液が作り足されている。時には血液が足りなくなってしまったときに貧血気味になってしまったり、さらに血液が足りなくなってしまえば他の人の血を「輸血」という形で継ぎ足すようなことだってある。そんな風に、何処かの誰かから何処かの誰かへ輸血された血が、そしてその血の中の水分子が今どこに漂っているかをふと考えてみたりもする。そんな血液の中の水分子はもしかしたら、体から排出されてどこかの海を漂っているかもしれないし、何処かの空を漂っているかも知れない、そしてもしかしたら、まだ何処かの誰かの体の中で漂っているかも知れない。そんなことを考えてみたりもする。
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2010-09-02[n年前へ]
■「鰻(うなぎ)のタレ」の錯覚
「江戸から続く老舗の鰻(うなぎ)屋で、毎日使った分だけを継ぎ足して使い続ける”鰻のタレが詰まった壷”」の中に、どれだけの創業当時のタレが残っているかという話をしている時に、ある共通の「錯覚」「勘違い」を持つ人が多いということに気が付きました。
それは、壺の中にあるタレが一体どのような「古さ年数」であるかを頭の中に浮かべてみると、つまり「古さ年数 v.s. タレの量」というグラフを頭の中に作ってみたときに、頭の中では、「昔のタレは古さ年数が(感覚的には)広がってしまう」という「錯覚」「間違い」です。たとえば、全然客の入らない店があったとしたら、その店の壺の中のタレはすべて創業当時のタレである。と、ここまでは誰もがうなづくのですが、それが少しでも客が入る店のことを考えてみると、実際の「古さ年数 v.s. タレの量」分布と、頭の中のそれと食い違いが生じてしまう人が多いようなのです。
そこで、ためしに、下に一日100人の客が来るお店の場合と、一日に1000人が来店する超弩級の人気店の場合の、「古さ年数 v.s. タレの量」分布の時系列的な変化を動画として張り付けてみました。横軸が、「古さ年数」で、縦軸がその古さ年数の「タレの量」です。原点が、その日継ぎ足したばかりのタレの量を示していて、右端が「創業時のタレ」の量を示している、という具合です。客数次第で、「新しいタレばかり」か「古いタレばかり」かの違いがわかります。
さて、あなたは、この動画グラフを眺めてどう思われるでしょうか?もしかしたら、右端にピンと鋭く立っている「創業時のタレ」の量を見て、アレッと違和感を持ったりはしないでしょうか?たとえば、ピンと鋭く立っている「創業時のタレ」の量が次第に横に広がっていくハズじゃないか・・・とか、そんな風に感じたりはしないでしょうか?
もしも、そういう感覚を持つとしたら、そういう人は実際多いのですが、その感覚の原因や効果を追いかけてみると、何だか少し面白いような気もします。
もう初秋になったというのに、厳しい残暑が続いています。夏バテ防止に、ウナギのかば焼きを食べるのも、良いかもしれません。