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■恋の分水嶺
ベクトルの彼方で待ってて
深夜に目が覚めてしまい、「探求心開発のすすめ - 「おかしい」と感じ、楽しく追求する事例集- 」北大路 剛 著 燃焼社セレクト教養双書ISBN4-88978-054-8を読んでいた。すると、「はじめに」面白い一節があった。
山の頂上が見えている間は、まだ、その麓にも達していない。山に登りはじめたら、山頂など全く見えはしない。次に踏み出す足をどの岩角に置くだけを考えて、少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達するはずである。「なるほどなぁ。そういうものかもしれないなぁ。だけど、仕事じゃぁそうはいかないような気もするがなぁ。頂上を極めるに至らなくても…とはなかなか言えないからなぁ。あと、次に踏み出す足の位置だけを考えていて、別の峰に登っちゃったらどうするんだろうなぁ。」などと思いながら惚けていた。すると、変なことを考え始めたので、それをここに書いてみることにした。
たとえ、頂上を極めるに至らなくても、その苦労に報いるだけのものは必ず得られるのだから。
次の図は「とある山」を示したものである。ちょうど富士山のような、広い裾を持つ孤立峰状の山である。
この「とある山」における「少しでも高い方向」を示してみたものが次の図である。
図中の各場所における矢印が「少しでも高い方向」を示したものだから、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」ことがよく判る。
とはいえ、その「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」のは孤立峰だからで、次の図に示すような山脈ではそうはいかない。
この図に示した山脈では、中央の山が他の山より高いのだが次の「少しでも高い方向」を示した図を見れば判るように、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」わけではない。下の図では青い線で示したような分水嶺が存在して、それぞれの領域の中で「少しでも高いところへ歩を運べば」、その近くの高い部分には到達するが、「やがて最も高い山頂に到達する」わけではない。当たり前である。
青い線が分水嶺 人々はそれぞれ塗り分けた領域で一番高い山に到達することになる |
例えば、この図の向かって左上側から山に登り始めた人は、必ず青色の領域に入る。だから、青色の丸で示した頂上(実は一番高いわけではない)に登ってしまう。同じように、登り始めたのが右上なら、緑の頂上に登ってしまう。もし、赤色の丸で示した一番高い頂上に登ろうと思ったら、向かって下側から登らなくては頂上にはたどり着けない。
富士山のような形の山はそうそう見かけないのに対して、そうでない形の山はとても多く見かけるのだから、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」というのは実は一般的にはそうそうありえない話のように思われる。
さて、これはこれまでも考え続けてきた「恋」の問題についても同じだろう。次の図に示すように「マドンナ」が一人しかいない状態では、その「マドンナ」の周りの「恋ポテンシャル」だけが高くなっている。
そのため、こんな「恋ポテンシャル」下での「恋のベクトル」を描いてみると、こんな感じになる。「男はみんな彼女の虜、彼女にみんな引き寄せられる」のである。「恋における孤立峰」での「恋のベクトル」の先には必ず「彼女(別につき合うという意味での彼女ではない)」がいるのである。
それに対して、先程と同じようにこんな「恋の山脈」を考えたらどうなるだろうか?A子、B子、C子という三つの山からなる「恋の山脈」である。
この場合の「恋の山脈」での「恋のベクトル」は先程と同じくこの図になる。つまり、あなたにとって客観的には一番魅力的なのはA子にも関わらず、恋の力に導かれるまま動いていったとしても、必ずしもA子に辿り着くわけではないのである。 さきほどの山と同じく、この場合にも「恋の分水嶺」があって、アプローチをし始める場所によって、B子の方に行ってしまったり、あるいは、C子の方に行ってしまったりするのである。ベクトルの彼方で誰が待っているかは、アプローチ次第だったりするのだ。
というわけで、「実際の山脈」でも「恋の山脈」でも、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」わけではないのだ。
とはいえ、見晴らしのきく頂上に登ったりすると、今度は他の(もっと高そうな)頂上が見えてくるわけで、もう一度そっちへアプローチし始めるなんてこともあるだろうから、結局は「一番高いところ」へたどり着けることもあるのかもしれない。それに、「実際の山登り」でも「恋の山登り」でも道に迷ったりして、思いも寄らぬ方向へ行ってしまうことはよく?あるわけで、そんな時に「恋の分水嶺」を越えてしまうなんてこともよくありそうな事態ではある。
もっとも、「実際の山登り」ならともかく、「恋の山脈」の方では「結婚」なんて状態もあったりするわけで、実はそうそう他の場所へ動けない場合も多いだろう。そんなことを考えるだけでも、これまた大変そうな状況も想像されるのがオソロシイところだ。
そう言えば、この「探求心開発のすすめ」の「はじめに」の中には、私がもう一つとても面白いなぁと思ったフレーズがある。それは、
古くより、「必要は発明の母」と言われていますが、これにならえば「疑問は学問の父」であると言えるのではないでしょうか。という一節である。この一節からは何やら、
- 「必要」という足が地に着いている女、と
- 「疑問」という何か浮世離れした男
いや、何を書いているのだ。そんな話を書こうとしたのではなくて、つまり「色々な疑問」は「学問の父」ってことで、例えそれが結婚システムへの疑問だとしても、それは単に一例にすぎない、ってことで…