2009-04-28[n年前へ]
■しりあがり寿が書く「文明」と「文化」という大きなヒント
しりあがり寿の「人並みといふこと 」には、「言われてみれば確かにその通りだ」「そうだ、そういうことに”ぼくら”は悩んだり、喜んだりするんだ」という「とても”ぼくら”を納得させてくれること」が溢れている。ここで、いう”ぼくら”というのは、中途半端な人だ。それが、「人並み」なのか、そうでないのかはわからいけれど、たぶん、結構多くの”ぼくら”だ。ちょっと、男性の方がそんな”ぼくら”は多いような気もするけれど、女性でもきっとある程度の数はいるだろう”ぼくら”だ。
「好きなものに賭けられる世の中っていいじゃないか」と言う。確かに「自由の果実」である「選択肢」は増えた。…でもそれはいたずらにルーレットの目を増やすだけで、人々を幸せにしているだろうか?
その、いつだって賭けなかった方の目、失われた別の可能性の亡霊がボクたちを苛立たせる。「もっといい選択はなかったのか」「あっちのほうがシアワセそうだぜ」選択肢が増えることも、可能性が増えることも、それは発展の証しのひとつに違いない。けれど、それらが”ぼくら”を悩ますことがあるのも確かなことだと思う。ずっと、そう思い、その答えをいつも探している。
そんな”ぼくら”に、しりあがり寿がテキトーに話す、そんな悩みに対する答えへのヒントは、こうだ。
僕は「火を発明するのが文明」で「その火の使い道を決めるのが文化」かなーと整理している。文明を推し進めるのは人の「ラクチンに安全に楽しく生きたい」という欲望。その欲望のおかげで人は便利なものを発明し、安全な都市を作る。しかし、弱い者でも生きていける世界を作るのが文明ならば、必然的に文明は人を弱くする。…そんな文明の弱点を補い、上手にコントロールしていくのが「文化」のような気がする。しりあがり寿が書く「文明」と「文化」に対する整理は、ぼくらを幸せにしてくれるヒントになっていると思う。それこそが、まさにひとつの「文化」ではないか、と思う。たとえば、しりあがり寿が手書きで書く言葉・想いが幾重にも重なっり重さをもったもの、それが文化というものなのではないだろうか。
おわりに 「人並みといふこと」
2010-12-04[n年前へ]
■ドッグイヤーに生きる「文明人」は近視眼的な発想に陥りがちだ
縣 秀彦「天文学者はロマンティストか?—知られざるその仕事と素顔 (生活人新書) 」から。
純粋な科学の追究は、その成果を応用することで、人々の生活を豊かにしたり、(中略)人類の歩みや個人個人の生活と深く繋がってきました。そして二十一世紀を迎えた今、科学の成果は、タイムラグなく直接人々の生活と関わりを持つようになってきています。
これはとりもなおさず、今を生きる文明人たちが、近視眼的な発想に陥りがちだということを意味します。その結果、愚かなことだとわかっていながらも、私たちは無意識のうちに、「役に立つ」「立たない」という評価軸のみで人の営みを測ってしまいがちなのです。
「役に立たない」「知っていても得しない」ことに、人類は古くから取り組んできました。文化とはそういうものです。
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