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2011-05-29[n年前へ]

「旅」という言葉を「人生」と置き換えて読んでみる 

 「”一周とか縦断とか”の旅はなんだかちょっと、人をわくわくさせます」というワクワクさせるアジテーションから始まる「野宿野郎」(急いでつくった)3号を読んでいると、村上春樹の言葉が差し込まれていました。

無目的にただぶらぶら旅してまわるのも、 もちろん楽しいけれど、経験的に言って、 ある程度そういう目的みたいなものがあったほうが、 旅行はうまく運ぶことが多い。

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

 よく、人生を「旅」に例えることがあるように思います。「人生という旅」といったフレーズを使うことも多いように思います。

 人生が「一種の旅」であるならば「旅全般について成り立つことは、人生についても成り立つ」のかもしれません。

 たとえば、村上春樹の言葉を、「旅」を「人生」と置き換えて読むのなら、それはこんな具合になります。

無目的な人生も楽しいけれど、経験的に言って、
ある程度目的みたいなものがあったほうが、
人生はうまく運ぶことが多い。

 「いい旅のためのガイドブック」はたくさんあります。もしかしたら、そんな旅のガイドブックを、その中にある「旅」という言葉を「人生」と置き換えつつ読んでみれば、その奥深さが見えてくるかもしれません。何しろ、そのタイトルは「いい人生のためのガイドブック」というように置き換えることができるからです。

 最後に、「アジアからイギリスのロンドンまで、乗合いバスに乗っていくこと」を目的として始めた旅について書いた沢木耕太郎『深夜特急』、その最初に書かれている言葉を書き留めてみます。酔狂なにも思える目的に向かい、時間と力をかけ続ける旅を読むと、無性にワクワクさせられます。

 人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録を作るためのものでもなく、血湧き肉躍る冒険大活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能で、しかし、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ。

沢木耕太郎『深夜特急』
 しとしと雨が続く梅雨の季節には、紀行本や旅行ガイドブックを読みつつ、無目的にぶらぶらとする魅力、目的を持って歩く意味に思いを馳せてみるのも、一興かもしれません。

2012-10-02[n年前へ]

旅がぼくらを連れて行く 

 山口香子さんが書く、読売新聞「ちきゅう 時の散歩~ジョン・スタインベック in サリナス」を読む。

 「私は、自分の国を知らない」−。「怒りの葡萄」や「エデンの東」で知られる米国の作家ジョン・スタインベックはこう宣言して、1960年秋、米国一周の旅に出た。
 スタインベックは、これに愛犬チャーリーを乗せ…約1万6000kmを1人で運転した。旅の体験は、「チャーリーとの旅ーアメリカを探して」と題した旅行記になった。…58才の作家は、途方に暮れて旅を終えたように見える。
 だが、「チャーリーとの旅」は読み継がれているし、ロシナンテ号を見に訪れる人は後を絶たない。「我々は旅をするのではない。旅が我々を連れて行くのだ」とスタインベックは書いている。

√a = 18  ふと「青春18きっぷは定義式」を連想する。

 すると、これは「ルートをとると、どんなaも、それら全ては18になる」という定義だ。もっと素直に言い換えれば、それはコピーそのままの「旅路(ルート)の中では、人は誰でも18(age)になる」である。そういう処理を行わせるものこそが「旅路(ルート)」というものなんだ、と高らかに定義・宣言する式である
 青春18きっぷのポスターに書かれた小さな式は「旅は人を18歳の頃の気分にさせる。そして、それこそが人の根底にあるものなんだ」という言葉だと勝手に想像してみるのだって面白いはずだ。

 ぼくらをどこかに連れて行く旅路(ルート)は、ぼくらの根底(ルート)にあるものを浮かび上がらせて、そしてぼくらをとこかへ連れて行くのだ。

2014-01-11[n年前へ]

あの時見た世界を今の私が一緒に共有してみたら…。 

 十歳の時に東京からイギリスに越して暮らしてる…そんな女性写真家が、小さい頃の自分が写る写真に一緒に写ってみたならば、つまり、同じ場所にもう一度行き、同じように写真を撮って、同じような旅をして…同じ写真に写ってみたらという"imagine finding me"を見ると、時間の中を走る列車に乗り込んだドラマを見たような気になります。

 Her series Imagine Finding Me consists of double self-portraits, with images of her present self beside her past self in various places she has visited. As Otsuka says: “The digital process becomes a tool, almost like a time machine, as I’m embarking on the journey to where I once belonged and at the same time becoming a tourist in my own history.”

Chino Otsuka

 そんな郷愁を起こさせる写真を見ていると、やはり、合成具合が不自然に感じる写真も混じっています。それは、たとえば、写真に写る人を360°の周囲から照らす光の具合や影の具合だったりします。そこで、こんな風に考えます。もしも、360°周囲から自分を照らす光(や風景)を記録していたならば、未来の自分や他の誰かを、今の自分を包む世界や光の中に連れ込むことができるかもしれない…。

 だから、たとえば、RICOH THETA 360°(全天球イメージ撮影デバイス) で周囲360°の全方向を記録する写真を撮っていたならば、そして、そんな風景を360°のドームに映した中で、いつかも一度写真を撮ったならば…人の背景には「かつて見た風景」が映り、そしてドーム中央に立つ人に対しては、かつて周りから浴びたのと同じ光が当たっていて…いつか見た世界と同じ世界を、違ういつかの誰かが一緒に共有することができるかもしれない…と考えたりします。(参考:THETAで撮った写真を天球ドームに映したところをTHETAで撮った。

 長方形のフレーム中だけでなく、全方向・全天球すべてにいる光や景色を(画素数が少なかったりやダイナミックレンジが足りなかったりしても)記録しておきさえすれば、未来の何時かに色んなものを眺めることができるのかもしれない…と思います。カメラマンが見た風景や、それとは180°逆方向にある、写真の中からカメラを眺めていた人が見た景色や、そんな人たちすべてを包む光や世界をもう一度眺めることができたなら…少し貴重な体験をすることができるかもしれません。



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