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2009-07-13[n年前へ]

「夏目なにがし」について 

 「何かを作り出す」ことが好きな人もいれば、「何かを動かす」ことが好きな人もいる。新たに自分が何かを生み出すにせよ、(自分が作ったものでない)何かを(それが新鮮だと感じられる場所に)動かすにせよ、「その何か」にお金を払っても良いと感じる人がいたならば、そこに「価値というもの」が生まれることになる。

 何かを作るにせよ、何かを動かすにせよ、その行動を起こした瞬間に、必ずしも「価値が生まれる」わけではない。もしも、何か価値が生まれた時、その瞬間、何かが作り出されり・何かを動かした人に、その価値の対価が還元されるならば話は単純だ。しかし、現実社会では、そうでない場合も多い。

 そんな場合、価値の対価はどこに還元されるのが良いだろう。それは、その「何かが生み出されたり・運ばれてきたとき」と価値が生まれた瞬間とのタイムラグや、その状況次第のところもある、と思う。

 今、価値の対価をどのように還元するのが良いかをふと考えてみると、その判断基準のひとつは、「価値が生み出されるか否か」ということで判断しても良いのではないか、と思う。「価値が生み出された」ことに対価を払いたいと願うのならば、その対価は「価値を新たに生み出すこと」というのも、至極当然であるように思われる。

そんなことを、「「夏目漱石」は日本の共有文化財産です」という記事を読み、ふと考えた。

2010-04-19[n年前へ]

「NET USE」コマンドと「Google」と 

 「PerlでWindowsネットワーク内のフォルダ内ファイルを操作したい時はどうする?」と知人に聞かれた。いくつか案を出した後、最終的に答えたのは、「WindowsのNET USEコマンドを使って、Windows内でネットワーク上ディレクトリ・ファイルをローカルにあるものと認識させて、Perlからは何も考えずに普通にアクセスするのではどうでしょうか?」という”とりあえず”な”逃げ案”だった。知っていると、苦労しないで済むWindowsのコマンドというものが、結構あるようにも思うけれど、この―Windowsのファイル共有やプリンタ共有と,ローカル・ドライブやローカル・プリンタといったデバイスへのマッピングを管理する―NET USEコマンドは、古いWindowsネットワーク内で作業する時には、知っておいても損はないコマンドのひとつだと思う。

 とはいえ、そんなコマンドを活用できる環境がいいのか悪いのかはよくわからない。先の知人は、梅雨が始まる前くらいに、Googleに入社するという。

 WindowsのNET USEコマンドを使い、Perlを使う、そんなことは新たな環境ではきっともうないことだろう。そんな切り貼りだらけの、不便で不細工な工作をするようなことはもうないに違いない。

 桜咲く季節は、新しいものと出会う。無限の可能性にワクワクさせられる。そして、桜の花が散った後の新緑が見える頃には、出会いがあれば、別れもある。

2011-07-14[n年前へ]

大変であつくるしくって「 幸せな時間」 

 日本ペットフードの2004年のコマーシャルの上で、ありとあらゆる「大切でかけがえのないもの」にあてはまるだろうことを、児島令子が表現したことばから。

 飼いたいけど飼わないという人がいたら、
伝えて欲しい。犬たちは、
あなたを悲しませるためにやっては来ない。
あなたを微笑ませるためだけにやって来るのだと。
 たぶん今日も、日本中の犬たちは
すごく生きていて、飼い主たちは、
大変であつくるしくって、
幸せな時間を共有しているはず。

大変であつくるしくって「 幸せな時間」






2014-01-11[n年前へ]

あの時見た世界を今の私が一緒に共有してみたら…。 

 十歳の時に東京からイギリスに越して暮らしてる…そんな女性写真家が、小さい頃の自分が写る写真に一緒に写ってみたならば、つまり、同じ場所にもう一度行き、同じように写真を撮って、同じような旅をして…同じ写真に写ってみたらという"imagine finding me"を見ると、時間の中を走る列車に乗り込んだドラマを見たような気になります。

 Her series Imagine Finding Me consists of double self-portraits, with images of her present self beside her past self in various places she has visited. As Otsuka says: “The digital process becomes a tool, almost like a time machine, as I’m embarking on the journey to where I once belonged and at the same time becoming a tourist in my own history.”

Chino Otsuka

 そんな郷愁を起こさせる写真を見ていると、やはり、合成具合が不自然に感じる写真も混じっています。それは、たとえば、写真に写る人を360°の周囲から照らす光の具合や影の具合だったりします。そこで、こんな風に考えます。もしも、360°周囲から自分を照らす光(や風景)を記録していたならば、未来の自分や他の誰かを、今の自分を包む世界や光の中に連れ込むことができるかもしれない…。

 だから、たとえば、RICOH THETA 360°(全天球イメージ撮影デバイス) で周囲360°の全方向を記録する写真を撮っていたならば、そして、そんな風景を360°のドームに映した中で、いつかも一度写真を撮ったならば…人の背景には「かつて見た風景」が映り、そしてドーム中央に立つ人に対しては、かつて周りから浴びたのと同じ光が当たっていて…いつか見た世界と同じ世界を、違ういつかの誰かが一緒に共有することができるかもしれない…と考えたりします。(参考:THETAで撮った写真を天球ドームに映したところをTHETAで撮った。

 長方形のフレーム中だけでなく、全方向・全天球すべてにいる光や景色を(画素数が少なかったりやダイナミックレンジが足りなかったりしても)記録しておきさえすれば、未来の何時かに色んなものを眺めることができるのかもしれない…と思います。カメラマンが見た風景や、それとは180°逆方向にある、写真の中からカメラを眺めていた人が見た景色や、そんな人たちすべてを包む光や世界をもう一度眺めることができたなら…少し貴重な体験をすることができるかもしれません。



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