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2008-05-24[n年前へ]

「大村益次郎」の頭 

 私が大村益次郎の肖像画を描いたキオソーネであれば、「コノアタマ、スコシ、ヘンデス!」と、何度も確かめただろう。しかし、益次郎の弟子は、「シ、然り。されど師匠はまさにこのようでありまして……」
 南伸坊は天才である。南伸坊が雑誌「旅」に連載したものが本になったのが、「歴史上の本人」だ。10年前の本である。その人のなりをして、その人が過ごした場所に行き、その人になって感じていく。
 神技とおそれられた大村益次郎の軍略とは、つまり「情報」であり「技術」であり、「近代」であり「合理主義」であった。……つまり、大村益次郎は、その頭によって必要とされ、その頭によって殺された。
 「この頭部は……」と私は頭部をまた脱ぎながら思った。見掛けの滑稽さに似つかわしくなく深刻である。
 大村益次郎には、平時に、学者や研究者として生かしてあげたがった。知ることの楽しさ、一途にそこにつき進んで、家庭に帰れば冗談を言って笑い転げるような、そんな生活をさせてあげたかった。そうしていたら、明治維新がならなかったとしてもだ。
  南伸坊 「歴史上の本人」

大村益次郎






2010-01-31[n年前へ]

自分で考えない力 

 小笠原喜康「新版 大学生のためのレポート・論文術 (講談社現代新書)」から。

 日本は明治以来、近代教育と言う国民皆教育の時代に入った。(中略) この目的のために重要な学力は、「時間を守る道徳」と「自分で考えない力」の二つである。
 戦後は、近代教育が社会に合わなくなってきた。学校は、70年代以降は急速にその力を失ってしまった。つまり時代に合わなくなっていった。「オイッチニー、オイッチニー」が通用するのは、古いタイプの大量生産工場に過ぎない。
 本書は、こんな日本の教育を受けてきた若者たちへのささやかなエールである。



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