hirax.net::『日傘をさす女』::(2001.04.15)

『日傘をさす女』 

立体絵画のサプリメント

 きっと、車窓からの強い日差しで日傘を連想したのだろう、

「モネの『日傘をさす女』が私の家にも飾ってあるの。だけど、何かWEBで紹介されてたものと何か違って子供もいないし、女の人の顔も何か違うんだけど」
と不意に言われた。あぁ、そうだったと思い出しながら私は
「その絵は一枚だけじゃないんですよ」
と答えた。その絵が何枚も描かれていることを前提にして、あるいは背景にして書いたような覚えも自分ではあったりしたのだが、今読み直すと書いた本人ですらそんなことは全然読みとれない。どうも、行間に隠しスギの文章である。というわけで、少し書き足してみることにした。


 少し前に、

カンバスから飛び出す「名画の世界」-作者の視点から眺めてみれば - (2001.01.21)
の時にモネの「日傘をさす女」をhirax.net Edittionとして立体化してみた。一枚の絵画を元にして、その絵の中の物体に対して距離に応じて左右の視差を意図的につくり、その際に画像の拡大縮小を組み合わせることで、情報量が足りなくなることを防ぐというhirax.net式「平面画像立体化法」である。そして、その時に作った画像が下の二枚の画像である。
 
日傘をさす女
hirax.net Edittion (交差法)

 しかし冒頭の会話の通り、モネが描いた『日傘をさす女』はこの時に使った元絵だけではない。モネは少なくともあと二枚は描いている。
 モネが一番最初に『日傘をさす女』を描いたものが前回使った『日傘をさす女』である。この時のモデルは妻のカミール・モネと息子ジーンである。ちなみに、モネがこの絵を描いたのは1875年だ。そして、その4年後の1879年に妻カミールは32歳にして亡くなっている。

 『日傘をさす女』が再び書かれるのは、カミールが亡くなってから7年後の1886年である。最初の『日傘をさす女』が描かれてから数えると、11年後のことになる。それがアリス・オシュデの娘ジュザンヌをモデルにして1886年に描かれた二枚の『日傘をさす女』だ。それからさらに6年後の1892年にモネはアリス・オシュデと再婚する。

 そのモネが描いた合わせて三つの『日傘をさす女』を下に並べてみる。
 

三枚の『日傘をさす女』
1875
1886
1886

 1875年に描かれた最初の一枚はもちろん妻カミール・モネがモデルである。そして、1886年に描かれた二枚は後に自分の娘となるジュザンヌをモデルにして描かれてはいる。確かにジュザンヌをモデルにして描かれてはいるのだけれど、それは11年前に描かれた『日傘をさす女』と瓜二つである。
 もちろん、カミール・モネとジュザンヌ・オシュデの顔は当然違うだろう。しかし、後に描かれた二枚の違うべきジュザンヌの顔の部分ははっきりとは描かれてはいない。左向きの『日傘をさす女』ではほとんど「のっぺらぼう」と言っても良いくらいだ。だから、モネはジュザンヌをモデルにしてはいるが、亡き妻カミール・モネをその向こうに思い浮かべながら描いていたとも言われる。
 

 『日傘をさす女』を立体化した「作者の視点から眺めてみれば」の時には

 両目でじっくり眺めてしまうと、いまひとつ感じられない風の感じや空気の透明感が、片目で眺めると躍動感と共にあなたの目の前に迫ってきて、カンバスの中で佇んでいる妻カミール・モネと息子ジーンが、その中から浮かび上がってくるはずだ。その時、二人の背景の青い空もより深く見え、空気の透明感も流れる風が流れる時間と共に浮かび上がってくるのである
というように書いた。そして、そんな絵をそれでも二つの目で眺めるときのために、視点からの位置的な距離を元にして左右に視差を作ることでhirax.net式「平面画像立体化法」を行ってみた。一つの視点から見た情報を適当に加工して、「異なる場所から撮った二枚の画像」を作成してみたわけである。

 ところで、「過去を見る右目と、未来を見る左目と」の時の話のように、「異なる場所から撮った二枚の画像」だけが立体画像になるわけではない。「異なる時間から眺めた二枚の画像」だって、立派な立体画像になる。時間の流れの中で何かが変化すれば、左右の目で視差を生じて、私達の目は立体感を感じるのである。ということは、例えば下のように『日傘をさす女』を二枚並べて、右目で右の絵を左目で左の絵をそれぞれ眺めた時には、私達はやはり何らかの立体感覚を感じるのではないだろうか?
 

日傘をさす女
1886
1875

 右目という一つの目で右の『日傘をさす女』を眺めるとき、私達の右目はモネが妻カミールを目の前にして描いた風景を実感することができる。そして、左目で左の『日傘をさす女』を眺めると、ジュザンヌをモデルにして筆を走らせているモネの眺めている風景を実感することができる。そんな風に眺めると、モネが眺めている同じ場所で流れていった時を両目で見ることになるわけだ。時間が流れるその時間の立体感を私達は眺めることができるわけだ。

 もちろん、この二枚の絵は構図などはほとんど同じではあるが、それでもかなりの部分が異なる。単純に立体視しようと思ってみてもなかなか左右の目から眺める映像が一致しないことだろう。だから、実際のところこの二枚の絵を立体視できる人はなかなかいないに違いない。
 

 そんな左右の目から見える状態が明らかに異なる場合、両眼視野闘争( BinocularRivalry )と呼ばれる現象が生じる。右目あるいは左目の片方からの映像が最初は意識され、それが短時間毎に入れ替わるのである。例えば、下の画像を立体視してみればそんな左右からの映像が入れ替わる様子を見ることができると思う。
 

両眼視野闘争 ( Binocular Rivalry )
 
 あまりに離れた場所から撮った立体写真や、あまりに離れた時間から映し出される立体画像では、左右の目から眺める景色があまりに違ってしまい、そんな両眼視野闘争が生じやすい。今回並べてみた二枚の『日傘をさす女』もそうなのだろう。モデルも違うし、ポーズも違う。最初のモデルのカミールはすでに亡くなっているし、11年も立てば小さな子供のジーンはもういない。
 だから、そんなに違う二枚の絵で立体視をしようとしても私達の目と頭は戸惑うだけだ。しかし、もしかしたらその戸惑いはモネが景色を眺めるときの戸惑いそのものなのではないだろうか?

 私達が上のように並べた『日傘をさす女』を眺めるとき、私達の右目(righteye)は過去にモネが見た風景を、そして左目(left eye)はその11年後にモネが眺めている風景を見ている。そして、その風景は両眼視野闘争によりちらちらと入れ替わって見える。右目が眺めるカミールの顔と、左目が眺めるのっぺらぼうのジュザンヌの顔がちらちらと交互に入れ替わる。それはモネがモデルのジュザンヌを眺めているときに、ちらちらと亡き妻カミールの顔・姿が頭の中で重なったモネの見た映像そのものなのかもしれない。

 私達が左の『日傘をさす女』を眺める左目(left eye)は「残された眼」であり、そしてまたセザンヌが言ったとおり「モネは眼」であるならば、「残された眼(lefteye)」こそは「残されたモネ」なのかもしれない。だったら、1886に描かれた『日傘をさす女』はやっぱり左目だけで眺めるのが良いのかもしれない。

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