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2011-08-22[n年前へ]

「知る・把握する」「見つけ出す」「選ぶ(捨てる)」ための87のテクニック 

 「ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム」という本を読みました。この本は、古くはKJ法やSWOT分析、あるいは、さまざまなブレインストーミング手法や優先順位をわかりやすく決める方法などを解説した本です。不明確で・不確実なことばかりに感じられるこの時代にふさわしい、「何を」「どのように行えば良いか」ということを、自分(たち)で見つけ出すためにはどのようにすれば良いか(道具ややり方を含めて)具体的に解説した本です。

 この本に書かれていることを、私なりに大雑把に分類してしまえば、それは

  • "現状"を整理し・把握するためのテクニック
  • ”できること”を見つけ出すテクニック
  • ”やること”を選び出すテクニック
という3種類のテクニックです。混沌とした現状をいくつかの視点から整理し・描き出し、その現状の中で”できること”を見つけ・拾い出すノウハウと、そして限られた時間・リソースの中で何をすべきかを見つける87の技術です。それら3つの技術を、さらにもっと短い言葉へと縮めてしまうと、それは「把握する技術」「見つけ出す技術」「選ぶ(捨てる)技術」です。

 足りないこと=すべきことが見えづらくなり、多様化の中で何を選んでいくかがわかりづらく、未来が不透明で不確実になりつつある現在、他の誰かが「何をすべきか」「どのようにすれば良いか」を教え・与えてくれるわけではないだろう、と思います。「何を・どのように行うか」という「プロセス」を与えられる時代は、もう終焉を迎えています。しかし、それにも関わらず、「何をするか」「どのようにするか」ということを見つけ(あるいは生み出し)・選ぶことを、悲しいくらい、不得手な人がいる(あるいは多い)のかもしれません。

 だとするならば、「把握するテクニック」「見つけ出すテクニック」「選ぶ(捨てる)テクニック」という3つの技術は、「足りないこと=すべきこと」を容易には見つけられない、生み出すことが難しいようにも思われる不確実なこの時代の中で、欠かすことができないサバイバル技術であるように思われます。”現状”をさまざまな視点から(容易に)整理し・描き出すにはどのようにしたら(たとえばどのようなイラストとして整理すれば)良いか、”できること”を創造的に見つけ出すにはどのようにすれば良いか、そして、限られた力の中で”すべきこと”を選び出すにはどうすれば良いか…こうしたことに悩んだことがある人にとっては、十徳ナイフならぬ八十七徳ナイフともいうべき欠かせない貴重なサバイバルナイフとなるかもしれない、と思います。

 この本は、「何を・どのようにすべきかというプロセス」を自分(たち)で見つけ・選ばなければならない時代において、その前に横たわる「見つけ・選ぶまでのプロセス」をまとめた本である、ということになります。

2016-04-17[n年前へ]

「レーウェンフックのスケッチ」と「フェルメールと印刷プロセス」 

 「レーウェンフックのスケッチは、あの画家フェルメールが描いたという説が!」というコメントを理科実験界隈で聞いた。それを聞いた時に考えたことを、少しここに書いてみる。

 この「説」が流れ始めたのは、「あの」福岡伸一さんの影響だろうか、たとえば(ANAが出している雑誌記事で最初に見た気もするけれど)右に貼り付けたような新聞記事にもなっている。…けれど、この記事にはいくつもの疑問がある。福岡先生は、オリジナルの手稿(オリジナルの素描)の変遷を時代的に追えるほどに十分に見たのだろうか?とか、そもそもレーウェンフックが観察を行い・その記録を出版した多くの時代はフェルメールが亡くなってからだということはどう説明するのだろう?とか、そもそも「(当時は)熟練のーけれど油彩画ではなくてー別種の画家の力を借りるのが当然だった」ということに言及していないのはなぜだろう?といった疑問だ。

 今現在眺めることができる「レーウェンフックが描いたスケッチ」というものは、多くのものが「レーウェンフックの自筆スケッチ」ではない。英国の王立学会(王立協会)の解説記事がわかりやすいけれど、現在「レーウェンフックのスケッチ」として眺めることができるほぼ全ての絵は「レーウェンフックの自筆スケッチとコメントを元にして銅版画家(油彩画画家ではなく)」が描いた上で印刷されたイラスト」だ。ちなみに、左下にはりつけたのは、王立学会解説記事で使われている希少なこれは希少なレーウェンフックの自筆スケッチで、右側はそれを銅版画家がトレースして(そのプロセスから必然として)反転すると同時に、(レーウェンフックの観察文言を元にして)銅版画家の想像力が作り出した銅版画化された世界だ。

 当時の印刷プロセスを考えれば、その当時の時代技術を考えれば当然のことであるのだけれども、「描いた絵」をー銅版画家ーが描き直す必要があった。もちろん、そもそも「絵を描くこと」ができない研究者も多いので、(王立学会記事にしたがえば、”レーウェンフックの場合は、本人が元スケッチを描いた”けれど)他の研究者の場合にはー銅版画家に回す前にーまず最初の画家に描いて貰うことで=観察した研究者・イラストを描く画家・銅版画家…のトータル3人の感覚に描画技術を経て作り出されるのが普通だった。もちろん、当時は銅版画家が「想像で書く」ことも一般的だったので、レーウェンフックの自筆スケッチと観察文面とを踏まえて、銅版画家が想像力で加筆をすることも普通だった。つまり、「科学者が(銅版)画を描く技術が無いので、(銅版)画家に描いてもらう」ことは普通だった。

 福岡伸一さんが書かれる一連の記事は、まるで小保方さんのように「人が欲しがるもの・ツボ」に通じていて…だから、そういうコメントが(興味を惹くために)理科実験界隈で出てくることについては…何か少し考えさせられてしまったりする。

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