2000-08-30[n年前へ]
■六の宮の姫君
さがし続けても、見つからない
六の宮の姫君
先日、創元推理文庫から出ている北村薫の「六の宮の姫君」を買った。日常の小さな(時には大きな)謎を解き明かして、そしてさらに奥深い何かを解き明かしていく「円紫師匠と私」シリーズの内の一作である。ハードカバーのものは既に買って持っていたのだが、文庫本についていた解説が面白かったので文庫版もついつい買ってしまった。
この文庫版の解説の中で一番面白かったのは、創元推理文庫から出ているものにはどれも英文のタイトルも付けられているということだった。言われてみれば確かにその通りで、横文字のタイトルが付けられていたのであるが、それを今まで特に気にしたことがなかった。「目の前にあるけど気付かないこと」というのはいたるところにたくさん溢れていて、そういったことを気付かせてくれる解説というのはとても面白いと思う。
北村薫の本で言うと「覆面作家の愛の歌」の角川文庫版の解説なんかもそうで、こちらでは文章の陰に隠れている「もう一つの物語」のことが書いてある。この解説を読まなければ、北村薫のさりげないけれどどうしても書かずにはいられなかった思いを汲み取ることはできなかっただろう。行間に隠されているからこそ、その思いの強さを感じるのだ。というわけで、こちらも当然のごとくハードカバーを持っているにも関わらず、文庫本もやはり買ってしまった。
さて、北村薫の「六の宮の姫君」のもうひとつのタイトルは"A Gateway ToLife"で「人生の門出」である。そして、この話の中の主題の一つともなっている芥川龍之介の「六の宮の姫君」に描かれているのは「人生の中で何かをさがし続けても、見つからなかった人生の終わり」だ。
今回は芥川の「六の宮の姫君」の中に登場する「言葉」を調べてみることで、「六の宮の姫君」の「何かが見つからない=何も見つからない」哀しいようすをそっと見てみたい、と思う。
そこで、
- 青空文庫 ( http://www.aozora.gr.jp/)
- 六の宮の姫君 ( http://www.aozora.gr.jp/cards/akutagawa/htmlfiles/rokunomiya.html )
右が「何も」の出現分布を見れば一目瞭然だと思うが、芥川の「六の宮の姫君」では「姫君」は話の最初から最後まで「何もない・見つからない」ようすで哀しく生きている。ただ、話の終盤で一瞬その「何か」が見えかける。それが、左の「蓮華」である。ただ、それもすぐに「六の宮の姫君」には見えなくなってしまい、また「何もない・見つからない」まま「六の宮の姫君」は一生を終えるのである。
こんな「さがし続けても、見つからない」というような話は、もちろん古い話に限らず現代の歌謡曲などでも数多くある。「探したけれど、見つからないのに...」とかすぐ口づさめるものがきっとあるはずだ。そしてさらにもちろん、そんな「さがしもの」は歌の中だけの話ではない。きっと百人の人がいたら百種類の「さがしもの」があるはずだ。そんな百人百様の「さがしもの」が見つかるか見つからないのか、それは誰にも判らない。
2003-01-04[n年前へ]
■キャッチボール その2
「(菊池寛の)真珠婦人は読みました」
「今時、千人に聞いても(真珠婦人なんて)読んでいないわよ」
こんな会話が交わされているのは、北村薫の『六の宮の姫君』の中だ。ここで語られている菊池寛の「真珠婦人」は今では文庫本となって本屋で平積みになっている。北村薫も驚いているに違いない。時代の流れなんてそうそう予想はできないものだ。とはいえ、その後に
「テレビの原作にぴったりの本だと思いました。波瀾万丈ドラマが流行っていますけれど、新しく作らなくても『真珠婦人』をやればいい筈です」
と語られているのだから、決して北村薫の書いたことが的外れというわけではない。むしろ、的確だったと言うべきかもしれない
この『六の宮の姫君』は芥川龍之介の「六の宮の姫君、あれはキャッチボォルだ」という(仮想の)言葉から、芥川龍之介と菊池寛の「キャッチボール」を描いていく文学・人生ミステリだ。鎌倉時代に生まれた「沙石集」を起点として、投げ返されていったボールの軌跡を遡っていくミステリだ。
時に強い反発であったり、時に強い共感であったり、とにかく色んな理由で私達(少なくとも私は)は色んなボールを投げ返すわけだけれど、好きで曖昧でそのくせ直接的に投げ返すことができるぶん、掲示板よりはこんな「いろいろ」風のひとりごとが好きかも。