hirax.net::Keywords::「論文」のブログ



2006-03-19[n年前へ]

「日本画像学会誌」160号 

 来月?に出る「日本画像学会誌」160号に論文を書いてみました。全12ページ・フルカラーで、今日、印刷用校正を済ませました。全ページ・フルカラーということでもわかるように、色に関係する内容で、(機械・表現媒体のみならず、人自身も含めた)各種デバイス間にわたる「色」ということを考えてみたい・(できるならば)答えたい、という話の0.5歩目辺り…です。

 6年くらい前、私はあるできごとをきっかけにして、hirax.netで「色(覚)」に関する話を書き、その後、自分にできる範囲で「ユニバーサルな色出力」に近づく(もっと具体的な)何かをしてみたい、と思ったわけです。そんな目的へ向けた半歩目辺りです。目的地に辿り着けるかどうかを考えると、悲観的にもなったりしますが、それでも口八丁手八丁を駆使し(何とか仕事に紛れ込ませ)時々進めていこう、と思っています。

 この論文の続きは、6月に開催されるImaging Conference JAPAN 2006で話す予定です。そこで、さらに0.5歩くらい目的地へ近づいてみたい、と思っています。…という感じで、宿題は、必ずしようと思ってます( > 二人のTさんへ)。ただ、グズでノロマな私なので、きっと何年もかかるとも思いますけれど…。 

2006-04-27[n年前へ]

特許と実験データ 

asahi.com: 実験データ捏造、過去の論文も調査へ 神戸大が記者会見asahi.com: 神戸大教授、実験データを捏造 特許出願取り下げ神戸大教授、実験データを捏造 特許出願取り下げ」「実験データ捏造、過去の論文も調査へ 神戸大が記者会見」という朝日新聞の記事を、「出願されている特許中のかなりの割合のものが実際には実験などされていないものだろうに…」と思いながら読む。

B-Files ! 例えば、私が見たことがある中では「常温核融合を熱源に用いたプリンタ装置に関する特許申請」なんていうものもある。もちろん、そこで「実施例」として書かれている実験が実際にされているわけもない。実施系を描いた図も「想像の(だけど、現実らしく思える程度の)世界」をまさに「描いた」程度のものであることも多いと思う。その実施例の効果・性能を描いたグラフだって、ドロー・ソフトで「描いた」ものであることだって多いだろう。

 この記事からは、そういった特許の世界の背景が見えない。

2006-04-30[n年前へ]

「学術論文」と「特許」の間に流れる深くて暗い河 

平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研:「学術論文」と「特許」の間に流れる深くて暗い河 Tech総研ブログ平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女「学術論文」と「特許」の間に流れる深くて暗い河 〜 特許申請は「検証されてから出すもの」じゃない… 〜 を書きました。事情を良く知っている企業側はただ黙っているに違いありませんからねぇ…「特許はSF(サイエンス・フィクション)みたいなものだよ、ホントはね」なんて言うわけにはいきませんし。

そろそろ、きちんと解説した記事が出てきても良い頃ではないでしょうか。「神戸大の教授」に矛先を向ける記事・対応は間違っています。

2006-05-01[n年前へ]

「メディア・記者」への期待 

平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研:「学術論文」と「特許」の間に流れる深くて暗い河 「学術論文」と「特許」の間に流れる深くて暗い河のコメントを色々考えながら読んで、今、こんなことをコメント欄に書きこみました。これは実に個人的な感想です。

 私は、異なる「もの・ひと・世界」などの間を繋ぐことが「メディア」というものが行っていることなのかな、とふと思うことがあります。「知らない人」と「知ってる人」、「遠くの出来事」と「目の前に拡がる近くの世界」、そんなことを繋ぐことが、「メディア」というものなのだろうか?と思うことがあります。メディア(media = medium)という名前は、すなわち、中間・媒介なんていう意味の言葉なのですから、それは実に当たり前の話かもしれません。
 
 そんなことを思いながら、今回の一連の記事に目を走らせるとき、私は記者の方たちが十分に自分の足とペンを走らせているとは感じられないのです。十分に、「離れた二つのもの」の間を繋いでいるとは思えないのです。「学術論文と特許の間に流れる深くて暗い河」や、「特許と学術的業績」や、「工学系研究者と実学」などの間を繋ぐ記事をもっと読みたい、と感じたりするのです。

2006-05-15[n年前へ]

「おとなの小論文教室。」 

おとなの小論文教室。 私は「ほぼ日刊イトイ新聞」は読んでいない。単独の記事を、他からのリンクで読みに行くことはあるけれど、「ほぼ日刊イトイ新聞」を読みに行くことはない。レイアウトが読みにくい、ただそれだけの、けれど十分な理由があるからだ。レイアウトが読みにくいから読まないだけだから、書籍として読みやすく作り直されたものは、楽しんでいる。もしかしたら、書き手からしたら不十分な出来なのかもしれないが、それでもWEBサイトの読みにくさと比べれば雲泥の差だ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。 昨日、山田ズーニー著「おとなの小論文教室。」を読んだ。これもまた、「いい」という感想は眺めつつも、WEBページ上では読む気にならず、これまで一度も読まなかったものだ。この本は本当に良かった。けれど、タイトルは、本当に良くない。少なくとも、この本のタイトルは、この本の内容の素晴らしさを表していない。私がこの本の中から読み取ったことは、「自分を見つけ出す」ということだ。

 年齢によらず、「自分という一人称を主語にして、私は〜だ」と言うことができない人、自分が相手にしている若い人たちの中に「自分という一人称」が見えないと感じる人、そんな人は手に取ってみるといいと思う。本屋で手に取って読んでみるか、それができなければ、Amazonで買った方がいいと思う。この本のタイトルや「ほぼ日コラム」というキャッチフレーズだけで手に取る気を無くす人も多いだろうけれど、手に取った方がきっといいと思う。そうすれば、自分や他人を見つけ出し、それらを手に取ることもできるんだろう、と思う。



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