2009-12-28[n年前へ]
■この後に続く言葉も、あなたは教わっていますね
直木賞を受賞した北村薫の「鷺と雪 」の前作、言いかえれば、「街の灯 (文春文庫) 」に続く、「ベッキーさん」シリーズ第二作目の「玻璃の天 (文春文庫) 」から。ひきたい言葉はここには書かないけれど、北村薫が描き出す「時」と「人」には、本当に心動かされる。
「この後に続く言葉も、あなたは教わっていますね」この言葉は、第三作目でも繰り返される。そして、この言葉を聴く登場人物は、さらに第三作目で、その後に続く言葉を、さらにこの言葉の後に続く言葉を、護符を抱くようにじっと聴く。
2009-12-30[n年前へ]
■「時代」という「馬」
北村薫が、昭和が始まり時代が大きく動くさなかの、人の日常を描いたベッキーさんシリーズ第1作目「街の灯 (文春文庫) 」から。
……悍馬(あばれ馬)というなら、時代ほどの悍馬はいないさ。ナポレオンでさえ、振り落とされた。
2010-01-01[n年前へ]
■「願えば必ず叶(かな)う」という言葉
年の初め。北村薫 ベッキーさんシリーズ三部作の最終巻、「鷺(さぎ)と雪 」から。
年の初めには願い事をなさい-と国漢の先生がおっしゃったわ。でもね、先生は「願えば必ず叶(かな)うものです」と仰ったの、ずいぶんと無責任じゃないかしら。だって願いごとなんて、十に一つ叶(かな)うかどうかでしょう。-簡単じゃないから、わざわざ、お願いするんですもの。
お嬢様、お嬢様とその先生では、どちらが年上でいらっしゃいます?先生の方が上ではございませんか?
でしたら、さまざまなことを見てらっしゃいます。<<この世では、あれもこれも思いのままにならぬ>>と知り尽くしていらっしゃるのでは?
お嬢様がおっしゃったのは、失礼ながら、<<いうまでもないこと>>でございます。先生が、それをご存じないと、お思いになりますか?
別宮には、そのお言葉が多くの哀しみに支えられたものに思えます。お若いうちは、そのような言葉がうるさく、時には忌まわしくさえ感じられるかも知れません。ですけれど、誰がいったか、その内にどのような思いが隠れているか、そういうことをお考えになるのも、よろしいかと存じます。
2010-01-02[n年前へ]
■ことを見つめるのは人である。
最近、「鳥」について書くことが多かった。「ドナドナ」の歌詞中に登場する燕や、サイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」のスズメや、あるいは、北村薫「鷺と雪 」のサギなど、不思議に、鳥についての話をタイプすることが多かったような気がする。ーそういう一見偶然に見えることというのは、実際のところよくあることだと思う。なぜなら、それは本当のところは偶然でなくて、必然のことだからではないか、と思うからだ。直接の因果関係はなくとも、それらは同じようなものだと思うからだ。
(チャップリンの映画をひいた)「街の灯 (文春文庫) 」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊は、五・一五事件を背景にする年に始まり、二・二六事件のその日のある「一瞬」で頁が閉じられる小説である。
第1作目の「街の灯」は、9.11のちょうど次の年9月、2002年9月に発表されたもので、つまり、「イラク戦争」が開始される前の年に書かれたものである。そして、イラク戦争が続く2005年から2006年にかけて書かれた、第2作目の「玻璃の天 (文春文庫) 」中の言葉が次の言葉である。
「…今日のお話はいかがでしたか」今現在の瞬間のメディアをみた後の感想だと言われても、何の違和感もないフレイズだ。
「思想的というより、いささか感情的なものに思えました。わたくしは、もう少し、数字などを挙げ、納得させてくれるものー日本の現状改善に、具体的な手掛かりを与えてくれるものを期待していました」
直木賞受賞をきっかけとしたインタビューで、インタビュアの次のような問いかけに対して、
今日の晩ご飯も明日の仕事も大切だけど、うかうかしてると、国そのものが取り返しのつかない方向へ進んでしまい、そこに巻き込まれてしまう、と。北村薫が答えた内容は、次の通りである。
私たちは普通に、日々、日常生活を続けていると思っています。でも、いつものように道の曲がり角を曲がってみたら、とんでもないことが起きていた、なんてことがあるように。案外知らず知らずのうちに、歴史の大事件に巻き込まれていたということは、いつでも起こりうるものだと思うんです。現在だって、国を揺るがすような大事件の曲がり角を曲がっている最中で、何ヶ月も経った後に始めてそのことに気がつく、という事態だってありえますから。
北村薫「鷺と雪」のたくさんの参考文献の最後に、ただ一文のあとがきのように書かれた一段、を書き写してみる。
ことを見つめるのは人である。これらの様々な出来事の中に、登場人物たちはいた。これらの小説群を、昭和初期の物語とだけ読むのは「間違い」である。
2010-01-04[n年前へ]
■さまざまなことを為(な)していくのは、次の世代のあなた方である
「直木賞-選評の概要」をとても面白く読みました。何かに対する選評、あるいは、コメントというものは、コメントの書き手自身を忠実に描きだすものだ、と思いながら読みました。
この回に受賞した北村薫の「鷺と雪」(リンク先は著者インタビュー)というより、「街の灯 (文春文庫)」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊は、かつて北村薫が書いた「六の宮の姫君」と同じように、論文であり・物語です。物語であると同時に論文でもあるということは、北村薫の器用さを証明すると同時に、それは、北村薫が持つ「(頭で考え・抑えてしまう)ある種の不自由さ」を示してしまうということでもあるのではないか、と私は思ってます。作家には誰しも、「(こういうこと・風には)書かない」と決めていることがあるものです。
だから、渡辺淳一の「お話そのものも、頭で作り出された域を出ていない」という評、あるいは、宮城谷昌光の「優雅さの対称となる醜悪さが淡白すぎて、その時代がもっているぬきさしならない悪の形がみえてこない」という評は実にもっともな意見だろうと思います。
ただし、私は、「街の灯 (文春文庫)」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊を、昭和初期の物語とだけ読むのは「間違い」であると、確信しています。これの小説群は、明らかに、過去と同時に現代を描いた話であると思っていますし、むしろ、現代の読者に対して投げかけられたメッセージ・物語だとしか読めないからです。
――最後まで読んで不思議に感じたのは、ベッキーさん(別宮さん)の諦念です。「いえ、別宮には何も出来ないのです」「何事も――お出来になるのは、お嬢様なのです」という最後のセリフがとても印象的でした。彼女の、この無力感の正体は何なのだろうと。だから、渡辺淳一の「舞台となる昭和初期の雰囲気が描けていない」という言葉には違和感を感じます。これは、昭和初期という時代が舞台であるけれども、メッセージを伝えようとする相手は、あくまで21世紀初頭に生きる若い人たちだ、と思うからです。
北村: それは「時代」でしょう。時代を、回避できない。当初から彼女をスーパーレディとして設定してあるのは、その、最後のセリフを言わせたいからなんだよね。スーパーレディが、しかし「何も出来ないのです」と告げる。それは、様々なことを為していくのは、次の世代のあなた方であり、読者である、ということをやはり言いたいから。
そういうわけで、この選評の概要では、宮部みゆきの評(他の)に一番納得しました。「最後まで読んで不思議に感じる」という人もいれば(インタビュアとして、わかっているからこそあえて聞き言葉にさせた、という可能性も高いと思いますが)、宮部みゆきのように「解る」という人もいるのです。
宮部みゆき 評: ずっと不思議に思っていました。…今回、『鷺と雪』を読んで、初めて解りました。別宮は〈未来の(主人公の)英子〉なのです。だからこそ、終盤で別宮が「別宮には何も出来ないのです」と語る言葉が、こんなにも重く、強く心に響くのです。この「別宮には何も出来ないのです」という言葉の後に続く、「何事もお出来になるのは、お嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです」という言葉は、作者が、今を生きる読者に投げた言葉以外の何物でもない。
ちなみに、ラストシーンに対して、井上ひさしが言う「こんな安易な手」ということが、実際には現実に(たくさん)あったことだというのが、参考文献を読めばわかる歴史の不思議さ、です。