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2011-03-19[n年前へ]

「USA産牛肉から狂牛病に感染する確率は…」の法則 

 原発の「想定リスク・対策」と「福島第一原発の現状」を整理した時に感じたのは、安全性を問われた時にするだろう「最後の砦(説明)」は、結局のところ「ベネフィットとリスクを天秤に乗せたもの」なんだろうと思います。「ベネフィットのためにこのリスクは受け入れざるを得なかった」という納得です。

 それは、原発のリスクに限らずありとあらゆると同じく、一番最後に考えることでもあるかもしれないし、一番最初に考えることであるように思います。それは「ベネフィットのためにこのリスクは受け入れるという選択・判断」です。

 端的な例を挙げてみれば、それはたとえば「アメリカ産の牛肉から(狂牛病に)感染する確率は、自動車事故で死ぬ確率より小さい」の法則です。「○×の確率は自動車事故で死ぬ確率より小さい」というのは、「安全」が話題になる時に、いつも出てくる定番のセリフです。絶対安全というものが存在しない以上、安全は「安全でない確率を比較する」ことでしか評価し得ないというロジックです。興味深いのは、「USA産牛肉から狂牛病に感染する確率は…」という論理が、時には受け入れられ、あるいは、時に拒否されることもある、ということです。

 下のグラフは、さまざまなことにおける、そんな確率を並べたグラフです。ベネフィットとリスクを天秤乗せて・悩み続けていくのが私たちの毎日なんでしょうか。

「USA産牛肉から感染する確率は…」の法則






2013-11-19[n年前へ]

「安全・品質」のためにかける「コスト」 

 車の急加速事故に関する記事を読み、品質や安全性を上げるために「コストをどの程度費やす」ものだろうか?と考えました。何か「とても常識っぽいこと」「みんな常識的に知っているのだろう」というのようなことを、今日はふと考えました。

 品質や安全性を高めるための作業やコストを費やすと、(品質や安全性が上がる結果)問題が生じることにより失われる「損失の量」が単調に減少していく・・・という右上図に描くような関係が、(非常に単純化されてはいますが)よくありそうなモデルに思えます。こういったモデルで「どの程度のコストをかける」のが適切なのでしょうか?

 品質や安全性を上げるためにコストを掛けると「問題による損失」は低減していきますが、あまりにコストを掛けすぎると、(品質・安全性を高めるためのコストを全くかけなかった場合の)「問題による損失の最大量」を作業コストが上回ってしまいます。さすがに、これでは本末転倒でしょうから、いくら何でもそこまでコストを掛けるのはムダそうです。

 となると、「問題による損失」と「品質や安全性を上げるためのコスト」の和が最小になる状態というのが、「品質や安全性を上げるための適切なコスト量」ということになるのでしょう。そんな図(右図)を「品質や安全性を上げるためのコスト=x」「問題による損失と品質や安全性を上げるためのコストの和=g(x)」を描いてみると、つまりは、d g(x) / dx == 0 となるとき「問題による損失」と「品質や安全性を上げるためのコスト」の和が最小になり、それが最適コストなんだろう・・・というように見えてきます。

 d g(x) / dx == 0 ということは、「(作業量に応じた)問題による損失量=f(x)」とすると d f(x) / dx >= -1 ・・・つまり、単純に、「品質や安全性を上げるためのコスト」を掛けても「問題による損失の減少」がそれに値する程度でなくなってしまうということを言ってるに過ぎません。

 それでは、この「(作業量に応じた)問題による損失量=f(x)」の形状が未知だったらどうすれば良いのかとか、これらのグラフの縦軸に「生み出される価値」も足し合わせてみたらどうなるか・・・とかいったことを、あるいは、原子力発電やありとあらゆる工学の産物に関したことを、暇な時にラクガキスケッチでもして考えを巡らせたくなります。

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