hirax.net::Keywords::「社会」のブログ



2007-07-22[n年前へ]

経済学と研究者 

 Rails を久しぶりに集中していじる。これまでの練習題材は、意外性がカケラもないプログラムだった。けれど、今回は自分の中で閉じないアプリケーションの練習をしてみることにした。表示される内容が新鮮で、自分で作っていても、内容を楽しむことができるのが、面白い。

 今日の「n年前へ

 この世は不公平なものだが、それぞれが努力すればそれに見合ったものをみんなが得られるようになる社会をどうすれば実現できるだろう、ということを愚直なまでに考えるのが経済学だ。 石川経夫
 世の中には二つのタイプの研究者がいる。理路整然と嘘を言う研究者と支離滅裂だけど真実を言う研究者がいる。 川喜多喬

2007-08-05[n年前へ]

記事と勉強 

 from n年前へ.

 記事を書かれるのも、書くのもどちらも人なんだよなぁ。
 結局は「万事に王道無し」なんですよね。だって、この内容「勉強そのもの」ですもの。要約してしまうと、「勉強しないとダメだよん」と言っているという…。
「幸福の繰り込み」テクニックは、物質的・経済的・社会的権力等にどれだけ恵まれているか)は気にせず、「自分がどれだけ幸福だと思っているか」ということだけを上手く考える知恵である。

2007-09-06[n年前へ]

「バカでヘン」 

男の子は皆「バカでヘン」です。女の子は「意地悪」
ちゃろん日記2000(仮)を読んだことのない人は、ぜひぜひ読んでみて下さいな。私の今でも一番のお気に入り。
 ちなみにそのまま大きくなるので、「オトコ」という生き物も基本的に「バカでヘン」だと思って間違いありません。
もしも本当に、「前世」というものがあるのなら、私の「前世」は、絶対に男だったと思う。ちゃろん日記(仮) 1997/09/07
「バカ」と「意地悪」が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね

2007-09-13[n年前へ]

「理系」と「化けもの」 

「それのどこが未踏なんですか?」という뿉꓊떿쳤ꓤ죣좽꒬꓇ꓞ꒹ꆣ
 人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
宇宙は永久に怪異に満ちている。
 しかも、私は記憶力が悪い。だから、次に書く言葉も多分間違っている。そして、自分の都合の良いように、きっと書き換わっている。だから、きっと間違っていることが、次に続く。
あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。
 寺田寅彦の葬式で、誰かが「君はとても孤独な人だった」というようなことを言った。
化け物の出入りする世界は科学の世界である。
 今では、寺田寅彦が書いた随筆をたくさん簡単に読むことができる。青空文庫でも、それ以外の場所でも、たくさん読むことができる。
 化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。
 けれど、寺田寅彦を書いた随筆を辿ることは、この瞬間の青空文庫からは、まだできない。
 それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。
 そんな随筆を辿ると、寺田寅彦が書く科学の書物や芸術の書物の中に寺田寅彦が見ていた景色、人によってはそれを化け物と呼ぶだろう景色が浮かび上がってくる。そんなものを化け物と呼ぶ人もいるだろうし、人によってはそれを人生と呼ぶこともあるだろう。あるいは、人によっては、それが"世界"だと言うかもしれない。
 あらゆる科学の書物は同時にまた芸術の世界でもある。
 「根っからの理系人間を自認する人には使えない言葉」でも「定量的に評価不能じゃないですか」と突っ込まれる表現でも、きっと社会や人生は根っからの理系世界でも定量的に評価可能な世界でもない世界にはそんな見方・現し方ことふさわしい。だから、
 ぼくが恰好悪いと感じるだけで作る理由としては充分じゃないですか。
だから、他の何の誰かの名前を借りた理由も頼るわけでなく「ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか」という言葉はシンプル、かつ、綺麗に響く。たぶん、これ以上綺麗なものはない。それを、他の何の誰かの名前を借りて表現しようとした途端、綺麗でなくなるように思う。

ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか。
 他の何の名前も借りず、他の何のルールも借りず、自分自身の言葉で書く「ぼくが恰好悪いと感じる」ということ、その正しさは、本当にシンプルで綺麗に響く。それを、社会が追いかけるかどうかは別にしても、その言葉は、本当にシンプルに綺麗に響く。

 人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。そして、その人の中の真実でしかない「人の記憶・人の過去や経験」は自分の都合の良いように変わり、そして新たな未来が形作られて行く。
 人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
 人の未来は、人が作る。

2009-10-14[n年前へ]

位置付けを欠いた”自在”な思考 

 橋本治の「あなたの苦手な彼女について (ちくま新書) 」から。

 平気で「我”こう”思うゆえに我あり。お前”こう”思わぬゆえに我なし」という認識をしてしまうのです。それがつまり、「あなたは私のような考え方をしていないから、あなたには自分がないのだ」という即断です。
 位置付けを欠いた思考は、いくらでも”自在”になります。でもその自在さは、一向に「外」とは噛み合いません。どんどん自在になるだけで、自己完結へ導いていきます。
 「自分がどこに存在して、自分の思考はどのようであってしかるべきか」という自覚のない人の思考は、どんどん自在になって現実から遊離をして行きます。
 思考が自在になってしまえば、「自分は位置付けを欠いている」というそのこと自体が、問題にならなくなります。だから、(中略)なにを言っても無駄です。しかるべき距離を置いて、「あなたは、自分が位置付けを欠いているということに、気づいていないんじゃないの?」ということを、黙って気づかせるようにしてあげるしか、その対処すべき方法はないように思われます。



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