2002-05-27[n年前へ]
■con
先週の英語のレッスンでは"con"はネガティブだけど"sting"はポジティブなのだー、というような話をしてた。で、今日とても爽快な景色を見ててその話を思い出した。
橋の上で、自分の長袖シャツの腕の部分を器用に結んでいる男がいた。袖を結び終わると、そのシャツをちゃんと着て、シャツの中で両手を背中に隠す。これで、一見両手が無いように見える男のできあがりだ。あとは、イッセー尾形も勝てないくらいの自然な演技を通行人に向けていた。
思わずこの景色を見てうれしくなってしまった。この景色はポジティブなのか、ネガティブなのかそれが問題なのである。が、キレイはキタナイ、キタナイはキレイでとにかくうれしくなってしまったのである。
2004-03-22[n年前へ]
■「ポジティブな自分」と「ネガティブな自分」
補集合の補集合から連想し、「「社会学」の科学哲学」を読んでみた。
初めに、社会像の提示の仕方には、その論理形式に応じて二種類の方法論があることを確認しておこう。「何かである自分」がポジティブな提示による自分なら、「何かでない自分」はネガティブな提示による自分なのだろうか。そして、それが「何かになれる自分」や「何かになれない自分」などという提示なら、提示方法だけでなく内容的にもそのポジティブさだったりネガティブさはさらに増すに違いない【何かになれないおれカネゴン】。
まず、「社会とは・・・なものではない」という否定的表現による社会像の提示がある。つまり、明らかに現代社会的で「ない」社会を見つけることにより、現代社会をその「補集合」として言い表す、と言う方法である。
つまり「補集合」の「補集合」として−研究対象の社会像を浮かび上がらせるのである。
しかし、それは結局「否定の否定」という操作を行っている以上(このネガティブな提示は)トートロジー(同語反覆)であり、いったい「何が」現代社会的か、という疑問には答えるが、「何故」現代社会がそのような姿になっているのか、という疑問には答えない。
そこで次に求められるのは「社会とは・・・なものである」、という肯定的提示を行う「ポジティブな提示」であろう。しかし、それはネガティブな提示とは違い、一筋縄ではいかない。
つまり、社会とは「・・・なもの」として認識可能なものなのであろうか?社会は、ひょっとするとカント曰くの「物自体」や、ヴィトゲンシュタイン曰くの「語り得ぬもの」なのかもしれないのである。
そんな自分に少し迷ってしまうなら、いっそ「自分」を「他人でないもの」とネガティブな提示で表してしまうのも良いのだろう。そして、トートロジーの迷路の中で、果たして自分や他人が「語り得るもの」かどうか、右往左往しつつ迷ってみるのも一興だろうか。
と、一瞬迷いつつも、そんな自分は一言で「バカ」とカントもヴィトゲンシュタインも言い表してしまうに違いない、と何故だかポジティブに思い至る【たった二文字でおれカネゴン】。
2004-03-23[n年前へ]
■「男」と「女」
「ポジティブな自分」と「ネガティブな自分」から、「ノーマ・ジーンとマリリン」を読んでみた。
ポジティブな自分を否定するネガティブな自分は必ずいるように、そして自分の本当に願う幸せはこれじゃない、と言い続ける自分がいるように、彼女の心の葛藤はとどまることがない。薬と酒に頼るマリリンは”結婚”にゴールを見出そうとするが、それも夢と現実のギャップ、男と女の違いに阻まれて妥協点を取ることも出来ない。「夢」と「現実」の違い、を新明解で調べてみれば、「夢」が「睡眠中に生活経験のごとく生起して目覚めると同時にはかなく消える、一種の幻覚」で「現在当面していて、それを無視することができない事柄」となるらしい。なるほど、目を開けると同時にはかなく消えてしまうのが「夢」で、目を開けても消えずに目の前に居座り続けるのが「現実」というわけか【目をつぶりたいおれカネゴン】。
「夢」と「現実」の違いはなんだかわかるような気がするが【何をわかったカネゴン】、「男」と「女」の違い、というのはいったいどんなものなのだろう?新明解に聞いてみる前に、もう少し自分で考えてみることにしてみよう【自習でなにをおれカネゴン】。
文中で目をとめたのが、こんなフレーズ。
マリリンを一言で表現するのは難しいといったのは、3番目の夫アーサー・ミラーつまりは、カントやヴィトゲンシュタインでなくとも誰しも「語り得ぬもの」で世の中は満ち溢れていると思うのだろう。そして、「三番目」というくらい世の中には”結婚”も満ち溢れているらしい。一体、ギネス記録は何回なのだろうか。
結婚のギネス記録はどうでも良いが、アーサー・ミラーが「マリリンはマリリンだ」と言いたくとも、「マリリンはマリリン」なのかはたまた「マリリンはノーマ」なのか、そんな言葉の迷路に迷い込んでしまったりもするわけで、「語りえぬもの」ばかりの世の中というものもそれはそれで良いかも知れぬ。さすれば、何も語らずに黙っていたとしてもも、「沈黙は金」と誤解されつつあるがままに許されたりするのかもしれない【黙ってられずにおれカネゴン】。
2004-09-01[n年前へ]
■今日の…うむぅ。
デンソーのタイ子会社では組み立て工程の従業員として、あえて身長155㌢前後の女性を採用しているそうです。ほぼ同じ身長の従業員をそろえることで、生産効率の無駄を省こうという考えです。インタビューイ(インタビューを受けている側)は、こんな「考え」をポジティブに話しているんだろう。けれど、インタビューにして記事にしている側はどうなんだろう?果たして、こんな「考え」をポジティブに受け止め、それをポジティブに記事にしているのだろうか?
from 日経産業新聞
2005-12-02[n年前へ]
■「ポジティブ・ネガティブ・ニュートラル」
先日、渋谷で「アルファブロガー」というタイトルの本を本棚から抜き、ページをめくってみました。すると、「ネガティブなことは書かないようにしている」という一節が見えたのです。その瞬間、ふとこんなことを考えました。
それは、「アルファブロガーの人たち」と「その他」を分ける境界線というものは、単にその「ネガティブでない = ポジティブ(もしくはニュートラル)」と「ネガティブ」の違いなのかもしれない、ということでした。私は「アルファブロガー」と呼ばれる人たちが、どういうものであるのかを全然知りません。全く知らないので、適当に「アルファブロガー」というものが「何かを生み出す人たち」だと勝手に想像してみたのです。そして、「その他の人たち」というものがその「何か」を受け継いでいくグループなのかな?と想像してみたのです。…だとすると、「アルファブロガーの人たち」というのは「ネガティブ」ではダメなのかもしれない、とふと思ったのです。
なぜかというと、「何かを新たに生み出す」ということは、「ポジティブ(もしくはニュートラル)に書くことが必要条件である」に違いない、とその瞬間には思ったからです。ポジティブの逆、「ネガティブ」というものは、「否定を含むもの」ということです。「何かに対して否定的なもの」ということです。もしかしたら、「ネガティブ」は「何かに対する感想・反応」と言い換えることもできたりするかもしれません。そして、それはさらに副次的・従属的なものだ、と言い換えることができるかもしれません。
「何かを新たに生み出す」ということが、(他のものに連なる)従属的で副次的なものないとしたら、それが「(他の何かに対する)感想」で終わらないためには、「ネガティブ」でなく、ポジティブあるいはニュートラルなスタイルで書かないといけないのだろうか?と想像したのです。…だから、「アルファブロガー」の人たちの条件は、「ネガティブなことは書かない」ことなのかもしれない、とふと思ったのです。
こんな文章も、ほんの何十秒か「アルファブロガー」の本をめくっただけの「感想」に過ぎません。そう考えると、何だか情けない気分になりつつ、仕事の帰りがてらに本屋によって、その本を買ってみたのです。さてさて、何はともあれ、本のページをゆっくりめくってみることにしましょうか。