2006-11-04[n年前へ]
■加納朋子「レインレイン・ボウ」
加納朋子の「レインレイン・ボウ」(の文庫版)を読んだ。9人いた高校ソフトボール部のチームメイトの1人が亡くなる。その前後の25歳のチームメイトたちを描いた小説だ。話のアウトラインを稚拙に書いてしまえば、北村薫の「秋の花」とよく似たものになるだろう。あるいは、その感想を書いてみても、Amazonの「秋の花」の書評
それぞれ「彼女」の心を読み解こうと試み、やがて「自分」の位置に思いを馳せる。あるものは倒れ、あるものは絶望し、あるものは迷い続ける。その途上に、彼女の残した「きっと」という言葉。それは運命、その意味へと向き合う人の希望であり、なによりも祈りなのである。などと似たようなものになるかもしれない。けれど、遥か年上の男性という視点から描かれた物語と、そうでない物語という違いが(いつもそうであるように)ある。
9人の物語が、まるで、色環の上を歩いていくように、オレンジ・スカーレット・黄色・緑・紫・藍・青と続く7つの物語で綴られる。何事もあまりに真剣に考えてしまいがちな人は「さらりとしすぎる」と感じ、楽しめないかもしれない。そうでない、「人生楽ありゃ 苦もあるさ涙のあとには 虹も出る」と水戸黄門風に考える人であれば、さらりと楽しめるかも。
「文化によっては、虹は6色とされているところもあるのよ」「何色が抜けているんですか」 …ないことにされている色を気の毒に思い、尋ねた。
プリズムを通過した光が見せる、無数の色のグラデーション。その細かな色のひとつひとつが、見える人には、見える。見えない人には、見えない。
「自分のことは自分が一番知ってるわよ」「自分で思っている自分が、必ずしも本当の姿に近いってことはないですよ」「色んな色が虹みたいに重なり合って、複雑な模様を作ってるからこそ、人間って面白いんじゃないですか」
2008-12-13[n年前へ]
■つながることへの信頼-加納朋子論
加納朋子のミステリとは、メッセージが届かないという<郵便的不安>に陥って、忘却に伴う孤独の淵に立つ人々に、発信されたメッセージは必ず届くのだというしっかりとした確信を与えることで、その精神を癒す物語だということができる
横井 司「つながることへの信頼-加納朋子論」
p.301 「虹の家のアリス (文春文庫)」
2009-07-08[n年前へ]
■自分の「掌(てのひら)の中」にあるもの
加納朋子の素敵なミステリ「掌の中の小鳥 (創元推理文庫) 」から。
(ひとりの子供が)「手の中に一羽の小鳥を隠し持って行って、賢者にこう言うんだ。『手の中の小鳥は生きているか、死んでいるか?』って。もし賢者が『生きている』と答えれば、子供は小鳥を握りつぶす。『死んでいる』と答えれば、小鳥は次の瞬間には空高く舞い上がるってわけさ。
-手の中の小鳥は生きている?それとも死んでいる?
賢者はこう言ったんだ。『幼き者よ。答えは汝(なんじ)の手の中にある』ってね。
あなたの手の中には何もないかもしれないし、逆に何だってあるかもしれない。小鳥はもう死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。
あなたがどんな人間なのか、決めるのはあなた自身なのよ。
■あなたの「掌(てのひら)の中」にあるもの
同じ文章を、違う本の中に見つけることはよくある。ある時は、同じような文脈で使われているし、また、ある時は少し違う例えとして使われていることもある。同じ文章が少し異なる使われ方をしているのに出合った時は、違う見方をひとつ知ったような気がして、少し豊かな心地になる。
加納朋子 「掌の中の小鳥 (創元推理文庫) 」から、「掌の中の小鳥」の寓話とそれにまつわる一節を引いた。
(ひとりの子供が)「手の中に一羽の小鳥を隠し持って行って、賢者にこう言うんだ。『手の中の小鳥は生きているか、死んでいるか?』って。もし賢者が『生きている』と答えれば、子供は小鳥を握りつぶす。『死んでいる』と答えれば、小鳥は次の瞬間には空高く舞い上がるってわけさ。
賢者はこう言ったんだ。『幼き者よ。答えは汝(なんじ)の手の中にある』ってね。
あなたがどんな人間なのか、決めるのはあなた自身なのよ。
この文章には、安本美典の「説得の文章術 」の中でも出会う。あるいは、この本が引用をした元になるゲーリー・スペンス「議論に絶対負けない法―全米ナンバーワン弁護士が書いた人生勝ち抜きのセオリー 」の中で、同じ寓話に出会う。
(ゲーリー・スペンスはこの寓話を法廷で話す)
「おじいさん、鳥は生きているか、死んでいるか?」 少年はばかにするような口調で言った。
すると、老人は思いやりのあふれる眼で少年を見て答えた。『鳥は「おまえの」の手の中にいるんだよ』
それから、私(ゲーリー・スペンス)は陪審員のほうを向いて言う。「ですから、皆さん、私の依頼人の命は皆さんの手の中にあるのです」
加納朋子の「掌の中の小鳥 」とゲーリー・スペンスの言葉の「掌の中の小鳥」では、同じ寓話が、少し違う装いで登場している。前者では小鳥を掌の中に持つ人に光があてられ、後者では掌の中の小鳥にスポットライトがあてられている。
もちろん、筋道を追いかけていけば、後者でも「掌の中の小鳥」を実感することで、=「掌の中の小鳥を自分ごと」として感じさせているのだから、結局のところは似たような意味合いにも、なりそうだ。
しかし、少なくとも読んだ時には、同じ寓話から異なる価値が引き出されているような感覚を受ける。つまり、ひとつの寓話からいくつもの価値が引き出されたように感じる。そして、こんな時、やはり豊かな気持になるのである。
2009-07-13[n年前へ]
■人を暖かに、いとおしくさせるもの
北上次郎の加納朋子「レインレイン・ボウ 」への解説。
保育園に勤務する佳寿美、看護婦の井上緑、そして大手出版社で働く陽子。みんなが幸せな生活を送っているわけではない。がんばってはいるものの、みんなどこかで迷っている。
これは暖かな一冊だ。いとおしくなる一冊だ。