hirax.net::Keywords::「朝日新聞」のブログ



2003-01-19[n年前へ]

タイガー・ウッズの秘密 

 今日の朝日新聞の夕刊に、ミウラ折りの三浦公亮氏が「日本機械学会誌」1月号にタイガー・ウッズの飛距離の秘密を分析した結果を報告という記事。その秘密は、「ボールをミートする寸前に左腕を体に引きつける」こと。そのようにして腕の回転の支点位置を引き上げることで、パラメータ励振によりヘッドのスピードをアップさせているのだろう、という分析。
 つまりはブランコと同じってことか。朝日新聞の例えは今ひとつ判りにくいかな。やはりここは、それは胸を揺さぶるオッパイ星人のパラメータ励振と同じとまで言って欲しいものなのである。

2003-01-29[n年前へ]

Nothing but Echo 

水面に映る「私たち」


 「ニュースは世相を映す」とよく言われる。「世間で起きる出来事を伝えようとするもの」が「ニュース」なのだから、「ニュースが世相を映す」のは当たり前なのかもしれない。けれど、それだけでなく「ニュースは世の中の私たち自身を写している」ものだと思う。それは、世の中にいる誰かが「ニュース」を伝えようとするものである限り、その「ニュース」を受け取ろうとする私たちがいる限り、そのニュースは「私たち自身」を映し出すものだと思う。世の中にいる誰かが何かを伝えようとして、世の中にいる私たちがその何かを受け取ろうとしている限り、そのニュースは結局のところ「私たちの姿」を忠実に描き出すものだと思う。水面を上から覗きこんでみれば、その水面に景色だけでなく私たちの姿も同時に映りこんでいるように、ギリシャ神話のナルキッソスが泉の中に自分自身の姿を見たように、その「ニュース」には世の中の出来事だけでなく、私たち自身だって写りこんでいるに違いない。

 大林宣彦は朝日新聞「私の視点」の中で次のように語っていた。

「報道とは本来が客観的事実のみを伝えるものではなく、記者個人にとっての心の真実を伝えようと願うものであり、… そしてまた、僕ら自身がメディアに何を求めているのかが、今問われている … 僕らは、実は語る人間でもあるからだ。メディアもジャーナリズムも世論も僕ら自身であるからだ。」
この言葉通り、メディアだってジャーナリズムだって結局のところは私たち自身なんだと思う。

 これはもちろん、「ニュース」の伝え手の役目も果たす2ちゃんねるだって同じだ。「名無しさん」という「誰でもない誰か」、だけど「世の中の何処かにいる誰か」の姿は結局のところ私たち自身の姿なのだと思う。だから、「2ちゃんねるは**だ」という言葉は全て私たち自身に「私たちは**だ」という言葉となって返ってくる。「2ちゃんねるはゴミだ」と口に出せば、それは「私たちはゴミだ」というエコーとなって返ってくる。もしも、「2ちゃんねるには宝石も埋まっている」というのであれば、「私たちの中には宝石も埋まっている」とそれは響くだけのことである。
 

 昨年末に放送されたNEWS23の 「あなたの物語」「誰でもない誰かの物語」では、視聴者の「テレビニュース」に対する意見をリアルタイムに募集しながら、その集まってくる答えを刻々とテロップとして流していた。「テレビニュース」が世の中に与える影響は?とか、「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?とか、そんな質問への二択の答えの集計結果を刻々と流していた。その問いの中の、そして答えの中の「テレビニュース」の部分は全て「僕ら自身」と置き換えられるのだから、その最後の集計結果は全て自分達自身にエコーのように降りかかってくる。水面に映る「私たち自身が描く私たち自身の姿」を、恐る恐るそして祈りとともに覗いてみるのである。
 
 

「テレビニュース」「私たち」が世の中に与える影響は?

良い   悪い
 
 

「テレビニュース」「私たち」は信用できる?

はい   いいえ
 
 

「テレビニュース」「私たち」はあなたの人生にとって「なくてはならないもの」ですか?

Yes   No





2003-10-17[n年前へ]

リンクという行為 

 で、ふと思うのはインターネットの「リンクの権利」。「リンクは誰にも妨げられない権利だ」と言う人も多いけれども、そう思わない人が存在するのも事実だと思う。そのどちらが正しいなんていう技術論や法律論には私はあまり興味がないし、あまり意味も感じない。
 それはつまるところ単に多数決で風潮ができあがってしまうことかもしれないし、あるいはごく少数の人の意見が通ってしまうものかもしれない。あるいはまた、そんなのはいつまで経っても決まるような命題ではないのかもしれない。

 とはいえ、例えば「朝日新聞社の事業や信用を害する恐れがある場合は、リンク自体をお断りすることがあります」というような宣言を尊重しようとは全く思わない。なぜなら、報道をしている組織、他の者への「リンク」を日々し続けている組織がそのようなことを言うのは自らが日々行っていることを否定するようなものであると思うからである。「他者の信用を害する可能性を大いに抱えながら他者への-リンク-をし続けている行為」を自ら否定するものだと思うからだ。他者へのリンクで商売をしている以上は、自らへのリンクを拒否することは奇妙な論理であって、それは自らを貶める行為だと思う。

今日の一言@ニュースステーション 

 今日のニュースステーション。朝日新聞創刊125周年・テレビ朝日開局45周年と銘打たれた「大英博物館の至宝展」の紹介が長々とされたあとに「お天気コーナー」に移る寸前、「これだけのものをイギリスは他国から略奪したのだからすごいものです」と言い放った久米宏。面白い。

2003-12-05[n年前へ]

狭くなった地球で 

 「日本人だけが自国人の顔を正しく区別できなかった」「自分たちの顔には希薄なイメージしか持っていない」

ぼんやりとしていて、あいまいな。そんな私たちも、そう悪くはない。
 という、清水克雄氏による朝日新聞12/5夕刊「顔のイメージ」。



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