hirax.net::Keywords::「おとなの小論文教室」のブログ



2008-04-28[n年前へ]

「スペシャルな人が周囲から孤立しないために」 

 お金は世界に通用するものです。その通用するものの流れで見たとき、人と人がどうつながり、どこに人の共感が生まれ、自分の何に対してお金が支払われ、自分は食べていっているのか?それをクールに観察してみてください。
   山田ズーニー「おとなの小論文教室」

2008-07-03[n年前へ]

「痛みは一瞬。映画は永遠」 

 "バック・トゥ・ザ・フューチャー"シリーズのメイキング・ビデオが結構面白かった。当時の技術で映像をどのように作っているか、ということも面白かったが、何より面白かったのが、マイケル.J.フォックスが語っていた話である。カンフー映画のジャッキー・チェンさながらに、転んだり・殴られたり・怪我したり……、とても痛いミステイクを数えきれないほど地検したマイケルは、監督ロバート・ゼメキスといつもこう言い合いながら、また次のテイクを再開したという。

 痛みは一瞬。映画は永遠。
 この二人が語った「痛み」は、クロード・モネの「絵を描くことは難しく、苦しい。絵を描いていると希望を失ってしまう。それでも私は言いたいと思っていることをすべて言ってしまうまでは、少なくともそれを言おうと試みた上でなければ死にたくない」という言葉の、「苦しく・希望を失ってしまう」ということと、少し似ている。

 あるいは、山田ズーニーが「おとなの小論文教室」書いていた「自分には紡ぎだせないものでも、それをイメージすることが人にはできる。それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないものだから、他人の水準のものでは納得できないものだからこそ、それを作ることに駆り立てられる。そして、自分が作らなければ「無い」ものだから、その過程で、時に絶望するのだろう」というような文章中の、「時に絶望する」という言葉とも似ている。

 それがどんな形の痛みでも、そんな痛みを感じていても、結局は、何かに駆り立てられものを作りつづける人たちなのだ。

 ものを作るのが好きな人たちは、ものを作り続けることが好きな人たちは、きっと「痛みは一瞬。映画は永遠」という言葉にうなづく部分があると思う。そして、実際には、その「映画」や「その人にとっての映画にあたるもの」は決して永遠ではなく、映画ができた瞬間を過ぎれば、またすぐに作り手も受け手も「次の映画」へと進んでいくということにもうなづくことだろう。そして、実は、それが結構好きなのではないかと思う。ものを作るのが好きな人たちは、ものを作り続けることが好きな人たちは。

 たとえば、苦しい思いをして山に登る人が、その苦しさが癒えないうちに次の登山を夢想しているように、あるいは、上手く動かない・思ったような結果が出ないプログラムと格闘し、なんとか動いた一瞬の喜びを糧に、また次のプログラムを(少なくとも最初の内は)喜々として書き始めてしまうような人たちがいる。それが、ものを作るのが好きな人たちなのだろう、と思う。

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2009-04-20[n年前へ]

「あなた」に薦めたい「しりあがり寿のマンガ入門」と「山田ズーニーのおとなの小論文教室。」 

 心の中に「何かはわからないけれど、何かをしたい」という気持ちををうっすら抱えている人、「何かをしたいけれど、どうしていったらいいのかよくわからない」という悩みを抱えているひと、「今のままで、このままで、本当にいいのだろうか」と考える時があるひと、そんな「あなた」に心から読んで欲しい・薦めてみたいと思うのが、しりあがり寿の「表現したい人のためのマンガ入門 」と山田ズーニーの「おとなの小論文教室。(1)~(3)」です。これらの本の中には、タイトルからはわかりづらい、素晴らしい内容が詰まっています。

 しかし自分には決定的な問題点がありました。「やりたいもの」がハッキリしないのです

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

 しりあがり寿の「マンガ入門」が私たちに教えてくれることは決して「マンガの描き方」ではありません。そして、山田ズーニーの「おとなの小論文教室。」が私たちに伝えようとしていることも、「小論文の書き方」ではないのです。

 「表現したい人のためのマンガ入門」と「おとなの小論文教室。」に書かれていることを、それをひとことで言えば、雑な表現であることを覚悟の上で一文で書けば、それは「生きていくためのコツ」「自分の活かし(生かし)方」を教えてくれる本・文章です。「自分」を知り、自分以外の世界を知り、そして、その世界の中での自分を見失わず歩いて行くためのアドバイス、が繰り返し書かれています。

 自分がいま、この手で紡ぎだせないものを、自分にはちゃんとイメージする力がある。
 それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないから、こんなに駆り立てられるのだろう。自分で作らなければ「無い」ものだから絶望するのだろう。

山田ズーニー
「17歳は2回くる おとなの小論文教室。(3)」
 山田ズーニーは、痛々しいほど真摯にとても力強く、かつひどく繊細な言葉を重ねて。そして、しりあがり寿は、非常に論理的でいて、それでいて限りなく自然なバランスで気楽な書き方で。二人のスタイルは180°ほどに異なっているように見えても、二人が書いたこれらの本は、いずれもが同じ「自分の可能性・潜在力を見つけること」「自分を表現する・活かすこと」「他の人に伝え・繋がること」、それは一体どういうことなのかということを教えてくれます。
 人間はもともと、何かのために生まれるものではありません。何かの職業につくとか、何かの使命を果たすとか、生まれながらにして決まっていることは何もない。ただし、あえて生まれてきた目的はといえば、生まれたこの世界に受け入れられること、それ自体じゃないでしょうか。

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

 それにしても、しりあがり寿のバランス感覚には驚かされます。不思議に敏感な感性と、データに裏付けされた論理と予測、そして、それらをまとめる絶妙なバランス感覚は、男性の私から見るとある意味で理想の大人に思えます。

 読者に見捨てられると食えないから、でもとりこまれると自分を見失うから、読者とつながる小指一本に力をこめます。
 自分のどこが悪いか考えることがあります。直さなきゃいけないところから順に並べたりして、でも面倒くさくなって、ほうってしまいます。
 いろいろ書いてきたけれど、…必要なのは、馬が走るように、犬が吠えるように、人が祈るように、ひとコマひとコマ、1ページ1ページ、まるで息をするようにマンガを描き続けること。ただそれだけかもしれません。

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」



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