2008-07-03[n年前へ]
■「痛みは一瞬。映画は永遠」
"バック・トゥ・ザ・フューチャー"シリーズのメイキング・ビデオが結構面白かった。当時の技術で映像をどのように作っているか、ということも面白かったが、何より面白かったのが、マイケル.J.フォックスが語っていた話である。カンフー映画のジャッキー・チェンさながらに、転んだり・殴られたり・怪我したり……、とても痛いミステイクを数えきれないほど地検したマイケルは、監督ロバート・ゼメキスといつもこう言い合いながら、また次のテイクを再開したという。
痛みは一瞬。映画は永遠。この二人が語った「痛み」は、クロード・モネの「絵を描くことは難しく、苦しい。絵を描いていると希望を失ってしまう。それでも私は言いたいと思っていることをすべて言ってしまうまでは、少なくともそれを言おうと試みた上でなければ死にたくない」という言葉の、「苦しく・希望を失ってしまう」ということと、少し似ている。
あるいは、山田ズーニーが「おとなの小論文教室」書いていた「自分には紡ぎだせないものでも、それをイメージすることが人にはできる。それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないものだから、他人の水準のものでは納得できないものだからこそ、それを作ることに駆り立てられる。そして、自分が作らなければ「無い」ものだから、その過程で、時に絶望するのだろう」というような文章中の、「時に絶望する」という言葉とも似ている。
それがどんな形の痛みでも、そんな痛みを感じていても、結局は、何かに駆り立てられものを作りつづける人たちなのだ。
ものを作るのが好きな人たちは、ものを作り続けることが好きな人たちは、きっと「痛みは一瞬。映画は永遠」という言葉にうなづく部分があると思う。そして、実際には、その「映画」や「その人にとっての映画にあたるもの」は決して永遠ではなく、映画ができた瞬間を過ぎれば、またすぐに作り手も受け手も「次の映画」へと進んでいくということにもうなづくことだろう。そして、実は、それが結構好きなのではないかと思う。ものを作るのが好きな人たちは、ものを作り続けることが好きな人たちは。
たとえば、苦しい思いをして山に登る人が、その苦しさが癒えないうちに次の登山を夢想しているように、あるいは、上手く動かない・思ったような結果が出ないプログラムと格闘し、なんとか動いた一瞬の喜びを糧に、また次のプログラムを(少なくとも最初の内は)喜々として書き始めてしまうような人たちがいる。それが、ものを作るのが好きな人たちなのだろう、と思う。
2010-04-23[n年前へ]
■Claude Monet Quotes
I perhaps owe having become a painter to flowers.
My life has been nothing but a failure.
No one is an artist unless he carries his picture in his head before painting it, and is sure of his method and composition.
■眠る「睡蓮(スイレン)」
「タンポポの花は、夜閉じる」ことが新鮮だったので、同じように夜眠る花を探してみた。すると、たとえば、(私たちがよく眺める種類の)スイレンもそういう「夜は閉じて眠り、昼には花を開く花」である、と知った。だから、「睡眠の蓮」で睡蓮と名づけられたという。
そういうことを知ると、睡蓮で彩られた公園の池を見るとき、これまでとは違った見方をするようになるように思う。たとえば、それが昼の池なのか、それとも、夜なのかということを意識しながら眺めるようになりそうだ。
「睡蓮」という言葉を見ると、クロード・モネを思い出す人も多いだろう。モネが一番描いたものが、「睡蓮」である。さまざまな色彩で、睡蓮が浮かぶ景色をモネは眺め、絵筆で描き出している。「光の画家」と呼ばれたモネは、光に照らされた風景がきらめくようすを、写真よりリアルに描き出している。
睡蓮には、夜眠り昼咲く種もあれば、昼眠り夜起きる種もあるという。光を描いたモネが見たたくさんの「睡蓮」は、一体、どんな種類の睡蓮なのだろうか。それは、陽の光の下に咲く睡蓮だろうか、それとも、月光の下で咲く花だろうか。