hirax.net::Keywords::「インタビュー」のブログ



2010-04-02[n年前へ]

「対談の準備」と「文章にする作業」 

 松井孝典と南伸坊による対談(というより南伸坊が松井孝典に色々なことを教わるといいう体のインタビュー)をまとめた『「科学的」って何だ! (ちくまプリマー新書) 』を読みました。読んだ理由は、内容、少なくとも章だてが「とても興味ある内容」だったからです。

  1. 未来はなぜわかるわけがないのか?~血液型性格判断から科学とは何かといった話題
  2. 宇宙の果てはあるのか?~宇宙科学から「わかる」「わからない」といった話題まで
  3. 日本はなぜ不合理がまかり通る社会になったのか~選択や格差社会の話題など
  4. 人間の欲望はなぜ尽きないのか~豊かとか欲望ととは何か
  5. 研究するとはどういうことか?

 しかし、読み進めながら考えたことは、この本の中で語られていることとはまったく関係のないこと、でした。それは、松井孝典と南伸坊と編集者の3人が、どのような風に文章を作ることに関わったのだろうか、ということです。対談の前に「どういうことを話すか」のアウトラインをある程度決めるだろうと思うのですが、そのアウトライン決めを誰がどのように行っていたかを知りたい、と思ったのです。そして、どのように「テープ起こし」をしたテキストを本としての「文章」にしていったかを知りたいのです。

 この本の中では、見事過ぎるくらい南伸坊は「素人役」「うなづき役」に徹しています。「そうですね」「はい」「ええ」「あー」「そうなんですか」…とここまで挙げると、南伸坊の台詞の過半数になるのではないか、と思うくらいです。この「見事過ぎる」度合いは、一体どういうプロセスで作られたのでしょう?

 私の想像では、編集者が「(著者2人に確認した上で)こういう内容で対談してもらいたい」という内容のアウトラインを作り、そのアウトラインを見ながら、南伸坊と松井孝典と編集者が喋ったのだろう、と思います。そして、南伸坊は「素人視線での聞き役」としてり、そして、文章修正の際も、(自身も編集者としての感覚・視線を交えながら)話の流れを邪魔しないように自身の発言部分を単純化し・編集者の言葉なども自身の発言部分に入れていったのではないかと感じます。その一方、松井孝典は、自分の発言部分に間違いがないようにという視点から、自身の発言部にのみ修正を加えていったのではないだろうか、と想像するのです。それが、この対談文章を作ったのだろうか、と想像します。

 …プロの意見など聞いてみたい、今日この頃です。

2010-09-05[n年前へ]

走れ、「大人になり損ねた少年」たち 

 「24時間、自分の足で走り続けたら、どこまで行くことができるだろう?」なんてことを考えていたところ、こんなことを教えて頂きました。

 雑誌ラピタの1996年2月号にこんな記事が載っていました。
  • 東京~下関 1062km、50時間36分 (平均速度約21km/h)
  • 下関~青森 1623km、95時間15分 (平均速度約17km/h)
距離が長くなると平均速度が下がるので24時間なら25km/hぐらいでしょうか。
 とすると、24時間×25km/時間=600km、つまり、東京から大阪を過ぎるくらいの距離を、24時間で走り抜けることができる、ということでしょうか。

 その記事には、さらにこんな数字が続きます。「鹿児島県佐多岬~北海道宗谷岬 2664km、176時間33分」「東京~ソウル(関釜フェリー区間を除く) 1609km、92時間5分」・・・これは、戸田真人さんという方の、「信号待ち、休憩、仮眠、フェリーでの移動時間などをすべて含んだ目的地までの総所要時間の記録」です。まるで日本の端から端まで自転車で、ほとんど不眠不休で走り抜き続けている人の記録です。

 この記事、文章を追えば信じられないほど壮絶に見えることを自分の満足のためにただ淡々とこなしている人にインタビューした記事には、「炎のランナー」という力強いフレーズとともに、「大人になり損ねた少年」という言葉も添えられています。

 「もしかしたら、自分も大人になり損ねた少年なのかもしれない」と思う人がいたら、そしてこの記事を読んだことがなかったとしたら、この「ラピタ 1996年2月号」を探して読んでみるとよいかもしれません。

大人になり損ねた少年






2010-09-26[n年前へ]

田村淳の「試行錯誤」 

 「ロンブー淳さんが休日にゆるーくやってるネット番組について本人インタビュー」から。

 「これやっちゃだめなんじゃないか?」「ここまでやったらやり過ぎなんじゃないか?」って自主規制をかける感覚がものすごく嫌で。それとっぱらうにはどうしたらいいんだろうなぁと考えているうちに、“失敗できる場所”があったらいいんじゃないかというところに思い至ったんです。

2010-12-27[n年前へ]

自分の本当のオリジナリティ 

 とり・みきがマンガ家9人にインタビューした「マンガ家のひみつ—とり・みき&人気作家9人の本音トーク 」で、しりあがり寿との回「自分の本当のオリジナリティっていうのは本来自分でもなかなかわからないはずなんです」における、しりあがり寿の言葉から。

 オリジナリティというのは、なんというか本当にオリジナリティがあるんだったら消しても消しても現れてくるはずなんですよ。自分で「ほら、こんなこと俺はやってるんだぜ」っていうオリジナリティは、なんか嘘っぽい。
 自分のオリジナリティというのは、本来自分でもなかなかわからないもので、それを知りたい・お客さんにも見せたいと思ったら、やっぱり消していくことですよ。これでもない、これでもないって。最後に残るものというか、あるいは一生を見渡してみてやっとわかるというのは本当のオリジナリティで、意識して作るようなものじゃ絶対ない。

しりあがり寿

2012-07-17[n年前へ]

”ま、いっか”という「やりきったヤツが使う言葉」 

 R25で読んだモト冬樹さんへのインタビュー記事。 書いたのは、武田篤典さんという方(あまりに小気味良い文章だったので、思わず記事を書いた方の名前をメモした)。

「オレね ”ま、いっか” っていう言葉が好きなんです。これは、やりきったヤツが使う言葉です。やるだけやったんだから、自分は納得している。・・・だから ”ま、いっか” なんです」



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