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2010-03-01[n年前へ]

だから、謝るのが僕の仕事なんです。 

 ダ・ヴィンチ 2009年 07月号 から、「毎日かあさん 」の編集もした志摩和生が、「毎日かあさん」の連載当初のことを振り返った言葉から。

 新聞って地方の真面目なお年寄りも読んでるから、とにかく最初は苦情の嵐。上司に毎日呼び出されて怒られっぱなし。
 ”サラリーマンは我慢するのが仕事なんです。僕のオヤジは一生我慢してきました。僕が一番尊敬してるのは僕のオヤジです。だから謝るのが僕の仕事なんです。”

2010-03-08[n年前へ]

仕事仲間との「給料の比率」 (初出:2006年03月21日) 

 「(漫才の)ネタを書く側をSE、そうでない人をプログラマとして、人気コンビに例えて、ギャラ比率をレポート(考えよう)」という記事を読んだことがあります。仕事を一緒にする人、けれど仕事の内容は違う人の間では、一体どんな割合でギャラを分けているものなのだろうか?というレポートです。その記事を読んだとき、ウォームビズに関する計算を行い、そして記事を書いた時のことを思い出しました。

 編集者と一緒に、計算内容の修正・デバッグ作業をしたときのことです。私たちは、メール越し太平洋越しに、こんな言葉を交わしたような気がします。
「何だか大変な仕事になってしまいましたねぇ…」
「この仕事量だと、いくらぐらいの報酬をもらいたいと思いますか?」
「あと、私たち二人(編集者の方と私)の間で、ギャラの分け前は一体どんな感じだったら納得します?」

   その後、「(ギャラの分け前は)半々でいいんじゃないでしょうか? たいていの場合は、下っ端エンジニアの方が”しきり役”より報酬って安いですけどね」と私が書けば、つまり、「いいんじゃないでしょうか」と言いながら…半分寄こせと要求する私に対し、「いやいや、ふつう、選手の方が監督より年俸は高いでしょう?それに、こういった業界では、筆者の方がしきり役(編集者)よりギャラが安いということはありえないんです…」と、大人の編集者は淡々と書かれたりするのです。

 異なる仕事をする人の間で、「報酬の分け前がどんな感じだったら納得できるか?」というのは難しい問題であるように思えます。基本的に、長く仕事を一緒にしたい人との間では、難しいことは考えず等分にするのが一番気持ち良いような気がします。二人なら半分に、三人なら三等分に・・・というのが、心地良いように思います。

 こんな時、なんだか難しいことを考えようとする時には、経済学者 石川経夫の言葉を、今一度眺め直してみることにしましょうか。

  この世は不公平なものだが、
  それぞれが努力すればそれに見合ったものを 
  みんなが得られるようになる社会を
  どうすれば実現できるだろう、
  ということを愚直なまでに考えるのが経済学だ。

2010-04-02[n年前へ]

「対談の準備」と「文章にする作業」 

 松井孝典と南伸坊による対談(というより南伸坊が松井孝典に色々なことを教わるといいう体のインタビュー)をまとめた『「科学的」って何だ! (ちくまプリマー新書) 』を読みました。読んだ理由は、内容、少なくとも章だてが「とても興味ある内容」だったからです。

  1. 未来はなぜわかるわけがないのか?~血液型性格判断から科学とは何かといった話題
  2. 宇宙の果てはあるのか?~宇宙科学から「わかる」「わからない」といった話題まで
  3. 日本はなぜ不合理がまかり通る社会になったのか~選択や格差社会の話題など
  4. 人間の欲望はなぜ尽きないのか~豊かとか欲望ととは何か
  5. 研究するとはどういうことか?

 しかし、読み進めながら考えたことは、この本の中で語られていることとはまったく関係のないこと、でした。それは、松井孝典と南伸坊と編集者の3人が、どのような風に文章を作ることに関わったのだろうか、ということです。対談の前に「どういうことを話すか」のアウトラインをある程度決めるだろうと思うのですが、そのアウトライン決めを誰がどのように行っていたかを知りたい、と思ったのです。そして、どのように「テープ起こし」をしたテキストを本としての「文章」にしていったかを知りたいのです。

 この本の中では、見事過ぎるくらい南伸坊は「素人役」「うなづき役」に徹しています。「そうですね」「はい」「ええ」「あー」「そうなんですか」…とここまで挙げると、南伸坊の台詞の過半数になるのではないか、と思うくらいです。この「見事過ぎる」度合いは、一体どういうプロセスで作られたのでしょう?

 私の想像では、編集者が「(著者2人に確認した上で)こういう内容で対談してもらいたい」という内容のアウトラインを作り、そのアウトラインを見ながら、南伸坊と松井孝典と編集者が喋ったのだろう、と思います。そして、南伸坊は「素人視線での聞き役」としてり、そして、文章修正の際も、(自身も編集者としての感覚・視線を交えながら)話の流れを邪魔しないように自身の発言部分を単純化し・編集者の言葉なども自身の発言部分に入れていったのではないかと感じます。その一方、松井孝典は、自分の発言部分に間違いがないようにという視点から、自身の発言部にのみ修正を加えていったのではないだろうか、と想像するのです。それが、この対談文章を作ったのだろうか、と想像します。

 …プロの意見など聞いてみたい、今日この頃です。

2013-03-22[n年前へ]

心惹かれる「アスキー女性編集者の平均顔」 

 3月23日発売のアスキーPC 5月号が届きました。この号に掲載されている記事(「ぐるぐるサイエンス」)中で、「アスキー女性編集者の平均顔」を作り・眺めました。…その顔が、ひどく心惹く面立ちなのです。

 「平均顔」ということは、実際には「そんな顔の人は、実際にはどこにも存在しない人」です。まるで、おおた慶文のイラストレーションのような「ドングリまなこの女の子」…どこかにいそうでいて、けれどどこにもいないような漢字の…柔らかそうでいて・けれど内心とても気が強そうな…何だかひどく魅力ある顔立ちです。

 この顔を眺めたくなったら、アスキーに行ってみると良いかもしれません。もちろん、実際には存在しない人ですから、頭の中で平均合成する必要があります。

 …けれど、やはり何だか魅力的ですよね。

心惹かれる「アスキー女性編集者の平均顔」心惹かれる「アスキー女性編集者の平均顔」








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