2002-02-03[n年前へ]
■「今日のポストイット」
その時々の宣伝をしてみるのも面白いかと、貼り付けてみることにしました。というわけで、まずは2/12まで。
2002-02-16[n年前へ]
■今日思い出したこと
日々の雑記帳の'02/02/12のCNNの話を読んで、「今日のできごと」を思い出した。そういえば、きょうNさんに「WEB更新復帰のこんな話どう思う?」と聞かれ、そのページの原案を読んだ。
下丸子にいた頃、私のデスクトップでこっそり動かしはじめたhttpサーバーもいつのまにか公式なサーバーに変わり管理者も代わり、そして部署名やいろいろなことが変わった今は「公式なんだろうけど、なんかよくわからないサーバー」になっている。
そういえば、「できるかな?」をこっそり書きはじめたのもあのサーバーの中だった。最初の頃の話は今でもあのサーバーの中で見ることができる。うーん、社内の何人かの同僚にメールで更新報告を送りつけていた頃が懐かしいぞ、と。
それにしても、リコー有志による「英語技術文献の日本語要約」はまだまだ続く。えらいのである。ということで、今日のポストイットは変更してみよう。(リンク)(リンク)
2005-04-17[n年前へ]
■紙と仕事や伝言の量
紙が素晴らしい大きな理由の一つは「紙がモノである」ということだと、ふと考えた。電子ペーパーの資料を読みながら、そんなこと考えた。
例えば、かつて「本」は知識という形のないものを「本」というモノに物体化した。あるいは、「(紙のような媒体の上に描かれた)絵画・写真」といったものは「景色や世界という形がありそうで、その姿をなかなか形にすることができないもの」をモノという物体に変えた。
あるいは、例えばポストイットはよく伝言やメモを貼り付けたりすることに使われる。それが素晴らしいのは、伝言やメッセージを「一枚のポストイット」というモノとして姿を現させることである。モノとして伝言やメモが姿を見せていれば、人はそれを把握しやすいに違いない。だから、ポストイットはそういう使われ方をし、そして大ヒット商品となったのだろうと思う。
伝言のポストイットや、紙書類や、写真や絵画といったモノとして姿を現された「何か」が、電子化の流れの中でまたモノとしての姿を消そうとしている。モノの姿をしているからこそ(少なくとも二十世紀までの)人が把握しやすかった何かがまた姿が見えないものになろうとしている。
「しかし、例えば机の上には仕事の紙書類があふれ、ディスプレイはポストイットの伝言で埋まっているじゃないか?」「そんなに世の中に紙が溢れているのだから、やはり紙より電子データにしないとダメなんじゃないの?」と思うこともある。だけど、それは紙が悪いのではなくて、単に世の中の「仕事や伝言」が多くなりすぎていることが原因かもしれない、と思う。それらの「仕事や伝言」が紙というモノとして姿を現しているから、紙が悪者に見えるけれど、それは紙というモノの形をした「何か」が多すぎるからかもしれない、と思う。電子化されたデータベースはえてして単なる「ゴミ箱」になりかねない。電子化 ≒ " > /dev/null"というようになってしまったりもする。それは、「何か」のモノという姿を変えたのではなくて、「何か」というモノの数が単に多いから捨ててしまったというだけだ。
もしかしたら、「私が電子メールにすぐに眼を通したり返事を書いたりできない」ことへの言い訳かもしれないですけれど、ね。電子メールの返事は必ず書くのですが、時間がかかるんですよ…、処理するまでに…。
2005-10-21[n年前へ]
■「想像力」と「創造力」
今週、「すごい人たちと俺たちのような普通の人の違いって何だと思う」と訊かれた。その違いって一体何なんだろう?と頭が考えている時に、口は勝手にこんなことを喋っていた。
「想像力」と「創造力」という二つの力を兼ね備えている、ということかもしれません。何か「あたり前だけど、他の人は描けなかったこと」を頭の中に描いて(想像して)、そんなことを実際に作り出してしまう(創造してしまう)、そんな力をスゴい人たちは備えているのかもしれない。…それならば、その「想像力」と「創造力」を持っている人と持っていない人では何が違うのだろう?その二つの力を持つか否かは何によるものが大きいのだろう、と考え始めた瞬間に、口がこんな言葉を発し始めた。
「創造力」は「努力」という「力」の違いなのかも、と思ったりします…。私が見たことのあるスゴイ人たちはみんな努力していた。軽く読み飛ばしている本に、書き込みがびっしりされていたり、ポストイットが数えられないほど貼り付けていたりした。
そして、もう一つの「想像力」に関しては、またしても口が勝手にこんなことを喋っていた。
「想像力」を狭める原因があるとしたら、それはきっと想像できたはずのことを勝手に無理だと思う自分自身なんだと思います。「想像力」というものが、「大きな何か」を思い浮かべる能力だとしたら、その能力を狭め失わせているものは自分自身かもしれない。もしかしたら自然に想像できたはずのことを、勝手に無理だとあきらめてしまう自分自身であったり、あるいは、「そんなことは無理だと思う他人」の意見に自分を合わせようとする自分自身かもしれない。
そして、ふとこんな言葉を思い出す。
「夢を見続ける力のことを"才能"と言うのだ」そういう意味では、今回の芝居は、戸惑いつつも、才能は決して枯らさなかった人たちの物語ですから
2005-11-02[n年前へ]
■苦情ポストイット・システム
今週の火曜日に、あるプログラマと御殿場の鄙びた食堂でこんな話をしていました。携帯電話GPSのシステムを眺めながら、そのプログラマが「近くにいる人たちに隠しメッセージを出せますよね」と言うわけです。「近くにいる人に苦情を投げたり、周りの人から自分に対する苦情を受け取ったりできますよね、それはとても良いものになるはずです」と力説するのです。つまりは、わきめもに書かれているような「苦情ポストイット・システム」をそのプログラマ氏は力説していたのです。さてさて、一体どうなんでしょうね。
周りの人間も注意する気配はない。(誰かに何かを注意したいときには)いろんな文句を書いたシールがあったらいいのだ。それをそおっと背中に貼るのだ。…しかし、そうなると私の背中にもいろいろなシールが貼られることだろう。 わきめも (05/11/2)