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2008-12-25[n年前へ]

「写し鏡」を市電に乗って見に行こう 

向田邦子の青春―写真とエッセイで綴る姉の素顔 (文春文庫)
 いつか、鹿児島に行ってみようと思っている。市電「朝日通」から歩いて徒歩7分の場所にあるという「かごしま近代文学館」に行って向田邦子の常設展をゆっくり眺めてみたい、と思っている。鹿児島は確か九州の南の端にあったはずというくらいの知識しかないので、実際のところ、市電「朝日通」に行くにはどうしたらいいのか全然わからない。けれど、いつになるかわからないけれど、いつか行こうと思っている。たとえば右上の表紙のような写真を眺めてみたいからだ。

写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった。
 向田邦子 「かわうそ」(思い出トランプ

 写真というのは「写し鏡」に似ている。カメラで撮影した写真に写っているのは「被写体」のようでいて、実は撮影者が写っている。そして、その撮影者を動かしているのは「被写体」でもある。

 被写体が人ならば、被写体はカメラのレンズ見る。だから、写真に写った被写体の瞳にはカメラを構える撮影者が映る。それと同時に、写真には撮影者がカメラを通して眺めた被写体が写っている、被写体と撮影者の両方を、その両方の視点が重なり写っているのが、写真だと思う。シャッターを押すのが撮影者なら、シャッターを押させるものは被写体である。そして、焦点が鋭く合っている写真であれば、必ず、そんな写し鏡のような景色が写る。

だから、「かごしま近代文学館」に行って、そんな写真を実際に眺め、写真に写る瞳をできる限りの近くから眺めてみたいと思っている。

 「冬の運動会」の、加代の死のシーンの稽古をしながら考えた。―向田さんは、どうしていつも<蜘蛛膜下出血>なのだろう。描写も似ている。
 ―その人が倒れたのは、蜘蛛膜下出血が原因だったのではないか。そして向田さんは、その発作の瞬間を目撃したのではなかったか。
 久世光彦 「冬の女たち

 その瞳に写っている景色を、いつか、見てみようと思っている。

2009-11-13[n年前へ]

「特急つばめ」と「見えないもの」 

 「広告批評 最終号(2009/04)」を読んでいると、写真家の藤井保とアートディレクターの副田高行がしていた話が面白かった。話題に上がったのは、コピーライターの仲畑貴志が綴った「愛とか、勇気とか、見えないものも乗せている」という言葉(1992年)と、薄暗闇の空間を突き進む列車の写真とともに有名になったJR九州のシリーズ公告の作成秘話である。

(藤井)僕らが最初に考えたのは、夜汽車って窓の灯りがロマンティックなので、その窓灯りから、乗客のことを想像できる写真が撮れたらいいなと思ってたんですけど、計算値違いだったのは(JR九州から)「特急つばめを撮ってください」と言われたんですよね?その列車は真っ黒の車体でガラスにスモークが貼ってあって、全然光が見えない。
 だから、「窓の灯り」は広告写真には(わかりやすい姿では)写っていない。そして、列車が乗せているはずの「たくさんの愛とか、勇気とか、見えないもの」も、薄暗い写真から直接見ることはできない、・・・ように見える。



 けれど、広告のコピーとして、「愛とか、勇気とか、見えないものも乗せている」という言葉が添えられたなら、目では見えないけれどきっとあるはずのたくさんの乗客の姿を想像することができる。窓の灯りからは見えなくとも、そんな「見えないもの」を、薄暗闇の中を走る列車をなぞる写真の中に想像することができるようになる。たくさん列車が乗せている「目に見えないもの」を、私たちはようやく写真の中に見ることができるようになる。



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