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2010-02-13[n年前へ]

フィギアスケートの「芸術点」と「プレゼンテーション」と「定量化」 

 昔、フィギアスケート競技を観ていると、「技術点」と「芸術点」というふたつの言葉を解説者が語るのをよく聞いた気がする。どの程度の難易度の技を、どのように行っていったかを評価する技術点というのは、まだわかりやすいような気がしたけれども、「芸術点」というものは何だか少しわかりづらく感じて苦手だった。

 その「芸術点」=Artistic Impression はいつの間にか、プレゼンテーション・スコア=Ppresentation Score と名前を変え、さらには構成点=Program Component Scoreというように名称が変わっていた。「芸術点」が「プレゼンテーション・スコア」そして「構成点」と名前を変えれば、かつて感じた「わかりづらさ」「基準のなさ」が消えるかと思いきや、むしろ、「技術点」とどのように違うのかがわかりづらいものに思え、何だかつまらなくなってしまったような気がする。

 「芸術点」という基準のわかりづらい曖昧模糊とした点数が、どのように、どれだけ、聴衆に何かを伝えるかという「点数」を体現する言葉に変わり、そして、「構成」="Components"というさらに具体的で基準がはっきりとしているように見える「点数」で争われるようになっている。

 しかし、曖昧で、あやふやな Artistic Impression という言葉の方が、Program Component Score という言葉よりも、心を動かされる度合いを的確に現わしている言葉のような気がする。

 一見すると確かなものに感じられる数値の方が実はとても曖昧であやふやなもので、曖昧に見えるものの方が本当はとても確実なものだということは、よくあることではないかと思う。

"I want to be with you the rest of my life. Will you marry me?"
"Yes."
Announcement: "Obviously, she said, yes."
下に張り付けた動画の中では、"Score"とか"Presentation"とか、さまざまな言葉が出てくる。その言葉、ひとつひとつを聞きつつ、その言葉を発した解説者と同じように心動かされる。

2010-09-04[n年前へ]

「論理的にプレゼンする技術」第4刷届けます 

 「論理的にプレゼンする技術 聴き手の記憶に残る話し方の極意 (サイエンス・アイ新書) 」の第4刷が届きました。初版第4刷となっていますが、第2刷以降、図版の更新なども行っているので、「初」という名前ではありますが、一歩づつ良い「版」に近づいていることを願っています。

 この本には、「基本」だけを詰め込んだつもりです。それは、基本を完全にこなすことができる人なんていない、あるいは、「基本をこなすことができる(ようにはたからは見える)人たちが”みんな”基本に立ち返ることをいつもし続けているさま」を見てきたような気がしていたからです。だから、…と書いても全然「論理的」な繋がりではありませんが、ほとんどの人に(少しは)役に立つのではないか、役に立てたら良いなと考えながら、ラクガキと清書をし続けたものです。

 さて、最後に、何度も書いている、こんな「あとがき」を、またさらい直しておこうかと思います。

 ですから、あなたが誰かの目の前でなにかを見せ(プレゼントして)、その存在を相手に心から実感してもらうこと、それが「プレゼン」なのです。(中略)本書があなたのプレゼン、あなたの"present"をより確かにする手助けができたなら、心よりうれしく思います。
 "The most precious gift we can offer other is our presence."

Thich Nhat Hanh

「論理的にプレゼンする技術」第4刷届けます






2010-09-11[n年前へ]

「贈り物<贈られたもの」という不等式 

 角田光代・松尾たいこ 「Presents」から。

 贈りものってなんだろう。(中略)私たちが人からもらうものは、ぬいぐるみやアクセサリーばかりでなく、言葉や、ごちそうや、空気や笑顔、そうしたものも含まれているに違いなく、(中略)生まれてから死ぬまでに、私たちは、いったいどのくらいのものを人からもらうんだろう。そんなことを考えながら、毎回文章を書いていました。人はだれでも、贈るより贈られるほうがつねに多いんじゃないかなと思います。

2011-01-19[n年前へ]

戦場で写るもの・写すもの・写らないもの 

 旅先でテレビをつけると、何度眺めても、いつも私の心をくすぐる、魅力的な戦場カメラマンが出ていました。そして、こんなような言葉を言っていたような気がします。

 「戦争で得をする人が必ずいるんです。戦場で、ファインダーをのぞき、それを見つけ出すことが大切だと、私は感じています」

 わかりやすい言葉です。けれど、少し「わかりやすぎる」言葉にも思えます。だから、その言葉をきっかけに、なぜかずいぶん長いこと考え込んでしまいました。

 戦場に立ち目の前に広がるものを眺めたとき、そこに写る人がいれば、その人々はほとんどが戦争で損ばかりををする人ではないか、という気がします。そして、それと同時に、競馬場でレースを眺める人たちのように、そこに立つ人の中にはは得をする可能性もあるけれど、悲しいくらいの損をする可能性も高いという人も多いのではないか、などと考えさせられtのです。

 もしかしたら、「戦争で得をする人」という存在があれば、それは戦場で覗くファインダーには写らないのではなかろうか、という気もします。そういう存在こそが、そういう存在を指向することこそが、「戦争で得をする存在」なのではないか、などとと感じたのです。

 (病室に横たわる)夏目雅子の顔を撮れない奴は、戦場で死体の顔だって撮れねえんだよ。病院の壁を乗り越えられねえ奴が、どうして戦場の鉄条網を越えられるんだよ。倒れて行く兵士たちの顔を、正面から撮るんだぞ。

野田秀樹 「20世紀最後の戯曲集

 ファインダーにはたくさんのものたちが写ります。それと同時に、写らない「人やもの」もたくさんあるのかもしれません。私たちは、戦場に向けられたファインダーに写る存在でしょうか。それとも、写らないものを指向する存在でしょうか。

 しかし、わが国の<正義>の女神は、目隠しをしない。日本の最高裁判所にある「正義」の像は目隠しをしていない。
 彼女は、誰を天秤に乗せ、誰に対して剣を振るわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない - そうする自分自身の顔を、世間に対してさらしものにしながら」

白倉伸一郎 「ヒーローと正義 (寺子屋新書)

2013-10-22[n年前へ]

「引き寄せられ、そこで生み出された少しのズレ」が、個性や存在を作り出す。 

 「仙台単身赴任生活」の、「何かが集まった集合体」の存在を連想して、何だかとても考えさせられた一節。周りのものを引き寄せて、そこで生まれたズレや何かの勘違いが、さらにモノや人を集めて大きくなったり、ぶつかって反発してみたり、あるいは続いていたりする…なんて、世に多くあること=普遍的に多く生じる・一般性のあることなのかもしれない、と感じたりします。

 台風がふたつ日本に近づいてる。台風って大きな低気圧なので合体してしまわないのか、と思うんだけど、台風はただ気圧が低いだけではなくて角運動量を持っている。…それぞれの台風が自分の角運動量を保存しようとするせいで…反発する方向の力になる…
 台風の物質としての実体は空気だけど、それはどんどん入れ替わる。…空気が質量を持っていて吸い込まれる時に少しどっちかに寄ってしまうせいで角運動量を増やす方向になる。…台風のアイデンティティは、つまり物質的実体としての空気は入れ替わってるのに、27号だ28号だとまるで鉄人のように区別できるその根源は、気圧ではなく、角運動量だといえるのではないか。



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