2004-01-02[n年前へ]
■ウは「チキウ岬」のウ
「チキウ岬へ行くと本当に地球は丸い」 from Syntax Error.
地球の丸さを実感できるというそのチキウ岬へ一度行ってみたくなります。なにより、その思わず地球を連想させるチキウ岬という名前が、なんともまた不思議に良いですね。しかも、霧がちなチキウ岬の先にはやっぱり灯台があるなんて、もうたまりません。50キロメートル以上の距離の遠くまで、その光が届くなんて。思わずレイ・ブラッドベリの霧笛を思い出してしまいます。
というわけで、今日のリンクは「灯台ペーパークラフト」 ちなみに、私もレイ・ブラッドベリは萩尾望都経由です。
2004-01-19[n年前へ]
■ある夜灯台が
そういえば、去年の年末近いある夜に「日本海沿いの灯台が土台だけを残して消失してしまった」という不思議な事件があった。もちろん、そんな話を聞くとブラッドベリあるいは萩尾望都の霧笛を思い出すわけです。海の底から、「千マイルもの向こうの二十マイルも深い海底から百万年もの時を経てゆっくり目覚めたもの」が灯台の霧笛に呼ばれてやってきて、そして、霧笛の途絶えた灯台を壊してしまった、という霧笛を思い出すわけです。
霧笛と言えば、このリンク先の批評はなかなかに読み応えがあります。もし、ブラッドベリや萩尾望都の霧笛、あるいは萩尾望都や野田秀樹の半神を好きであれば、読んでみることをお勧めします。
これまでぼくはずっと、たったひとつの音を発し続ける装置について考え続けていた。あらゆる海、あらゆる時間、あらゆる霧の中を押し分けて、剥き出しのまま届きぼくのなかに響く声、…引き剥がすことのできない声を発する装置。「霧笛」だ。 萩尾望都・野田秀樹の戯曲「半神」には、「霧笛」のある一部分が引用されていて、交錯するこのふたつのテクストは、まるで「霧笛」のなかの灯台とそれに相対する怪物の声のように、それぞれぼくの霧の中で深い孤独のうちに呼応しあっている。「半神」は孤独、決定的なひとつの不在を生きること、について描き、「霧笛」はその孤独な他者へ呼びかける声の乗り越えられなさを描いていると言っていいかもしれない。ともかくどちらも、深い愛についての話だ。こんな「何かに対する見方の一つ」を与えてくれて、しかもその見方から見える世界が「とても深い世界」になっているというのは、とても素晴らしい批評だと思う。元の何かに対する価値を高めてくれる批評というものは、実に素晴らしい批評だと思う。
演劇「半神」の中には「1/2+1/2=2/4」という螺旋方程式が出てくる。「1/2+1/2=2/2」ではない。「1/2+1/2=2/4」であって、その答えは割り切らなければならないがために、その結果は「1/2+1/2=2/4=1/2」となる。スフィンクスの問いを踏まえて言えば、その螺旋方程式の答えは「一人+一人=一人」になる。シャム双生児を別れさせたならば、その結果は一人だけしか生き残ることはできないということ。あるいは、DNAの二重螺旋の二本の鎖がいくら絡み合っても、結局のところ決して交わらないということ。だけど、やはりそれでも左辺のように足し算をしたくなるということ。そういった色んなことを示しているようにも見える。もっと、シンプルに言ってしまえば、いやそれが「1/2+1/2=2/4」という数式になるのか。
そんなわけで、もう少し引用しておこう。
眠りを呼びさます、その場所から引き剥がす「声」なじんだ場所、体の張り付いてしまった所から引き剥がされることは、快楽でありながら 時として耐え難い痛みを伴うものだ。まして「百万年も待っていた」なら、なおさらのことだ。しかし目覚めないわけにはいかない。「声」が届いた、あるいは届けられてしまったのだから。 彼は深く沈んだ海の重み、強い耐え難さの中を耐えながら上昇してくる。「一時間ごとに数フィートずつ昇っては、ゆっくりとその体を慣らしたあげく、やっと水面に近づいても生きていられるようになる。だから、水面へ出るまでに三ヶ月はたっぷりかかり、さらに、それから灯台まで冷たい海を泳いで何日もかかる」 そして破壊のあとに、怪物は鳴く。灯台はなくなってしまっていた。百万年の向こうから怪物に呼びかけていたものはなくなってしまったのだ。言うまでもなく、ここでは怪物における不在、かつて「存在したが(今では)なくなってしまったもの」という存在が、彼の声帯に繋がれているのだ。
2004-05-05[n年前へ]
■感傷的漫画について
感傷的漫画に挙げられているマンガの中で言うと、大島弓子や「南くんの恋人」が好きだというのであれば、「草迷宮・草空間」は良いかもしれません。萩尾望都・大島弓子(つるばらつるばら とか)が好きだというのであれば、「星の時計のLiddell」も気に入るのかもしれません。また、少し世界は違いますが「無能の人」も似たテイストのような気もします。 ちなみに、「鳥頭紀行」「できるかな」や「まあじゃんほうろうき」辺りだけを読んで西原理恵子を語っては、…イケマセンねぇ。
2008-05-28[n年前へ]
■『専門家11人に「経済学」を聞く! 』と『11人いる!』
私個人の感覚としては、『理系サラリーマン専門家11人に「経済学」を聞く!』の「11人に聞く!」というタイトルは、萩尾望都のSF漫画「11人いる!」の暗黙的なパロディです。
小島寛之先生に、「10人の経済学者がいれば、11個の経済学説がある」という話を聞きました。その時、ふと「11人いる!」を思い出しました。あの話は「ロケットに乗ったのは10人のはずなのに、なぜか11人いる!」という話でした。「11人いる!」の結末は、「宇宙では思ってもいないことが起きる。必ず想定外のことが起きる。そんな時にどうするかが宇宙では重要だ」という感じだったように思います。
宇宙大学への入学のための試験会場の宇宙船へ着いてみると、10人のハズが1人増えていた!
そんなことを、玄田有史先生に話を聞いた時にも、感じました。上の言葉の「宇宙」を「人生」に置き直したら、玄田先生が語る言葉に近いように感じたのです。あえて書いてしまえば、それは、「人生では思ってもいないことが起きる。必ず想定外のことが人生では起きる。 そんな時にどうするかを知ることが、本来の人生教育だ」というような具合です。
というわけで、経済学者が「11人いる!」と気づいた時に、何だかちょっと面白く・そして何故か当然のようにも感じたのです。
宇宙はつねに変化に満ちている概念が通用しない場合もある常に異端の11人目が存在するようなものだ。
2009-03-06[n年前へ]
■「半神」のDVD
ふと、夢の遊眠社の「半神」が映像化されたものが手にはいるだろうかと探してみると、「劇団夢の遊眠社 COLLECTOR' S BOX [DVD] 」というものが発売されていた。
以前、VHSビデオテープで発売されていた「小指の思い出」「野獣降臨(のけものきたりて)」「半神」「贋作・桜の森の満開の下」「ゼンダ城の虜-苔むす僕らが嬰児の夜-」「ひとつあってもいい。Making of HANSHIN」「もうひとつあってもいい? 」といった夢の遊眠社の舞台やそのメイキングビデオが入っている。私はこのビデオ版を持っているのだが、このVHSビデオの方は、図書館の視聴覚コーナーなどにも置いてあることも多いかもしれない。
「半神」は、かつて心臓を含む体のほとんどを共有していた双生児の分離手術、端的に言えば、双生児がヒトと神に分かれていく話だ。原作は萩尾望都の「半神 」だが、野田秀樹はそれにブラッドベリ・萩尾望都の「霧笛」(「ウは宇宙船のウ 」に収録)などの話を混ぜていくことで、さらに奥深い一種の創世記になっている。
シュラ:それはあたしの妹のマリアなの。
シュラ:いつも、あたしの横に坐っていたの。
先生:仲が良かったんだね。
シュラ:ううん、あたし達、くっついていたの。
先生:くっついていた?
シュラ:うん。
先生:そんな、話誰も信じないよ。
シュラ:誰もが、そう言うの。切り離されてからは。
野田秀樹 「半神」
今ではもうどなたが書いたのだか残念なことにわからなくなってしまったのだが、「半神」「霧笛」という2つの物語に対して、「半神は孤独、決定的なひとつの不在を生きること、について描き、霧笛はその孤独な他者へ呼びかける声の乗り越えられなさを描いていると言っていいかもしれない。ともかくどちらも、深い愛についての話だ」と書いていた。言われてみると、本当にその通りだと思う。
孤独は、ヒトになる子にあげよう。
代わりに、おまえには音をつくってあげよう。
野田秀樹 「半神」
この世の誰もきいたことのない音、この海原ごしに呼びかけて船に警告してやる声が要る。その声をつくってやろう。
これまでにあったどんな時間、どんな霧にも似合った声をつくってやろう。たとえば夜ふけてある、きみのそばのからっぽのベッド、訪うて人の誰もいない家、また葉のちってしまった晩秋の木々に似合った……そんな声をつくってやろう。
泣きながら南方へ去る鳥の声、11月の風や……さみしい浜辺によする波に似た音、そんな音をつくってやろう。
それはあまりにも孤独な音なので、誰もそれをききもらすはずはなく、それを耳にしては誰もがひそかにしのび泣きをし、遠くの町できけばいっそう我家があたたかくなつかしく思われる……そんな音をつくってやろう。
おれは我と我身を一つの音、一つの機械としてやろう。そうすれば、それを人は霧笛と呼び、それをきく人はみな永遠というものの悲しみと生きることのはかなさを知るだろう。
野田秀樹 「半神 」中の「霧笛」の一節