2004-10-10[n年前へ]
2004-10-29[n年前へ]
■小春日和のパノラマ
初冬の,春のように暖かい日、小春日和のパノラマ写真
2004-11-06[n年前へ]
2005-09-25[n年前へ]
■沼津千本浜
千本浜で海を眺めると、いつもと少し違う感じがする。よく眺めてみると、何隻もの巨大な船が視界に見える。台風を避けて、駿河湾内に避難しているようだ。何枚も何枚も色んな写真や、パノラマ写真を撮影した後で、帰宅後コンパクトフラッシュをカメラに入れ忘れていたことに気づく。眺めた景色は、陽が海面に差す、とても綺麗な景色。
2005-10-16[n年前へ]
■「長い文章を書くということ」
広い景色を写真に写したい、と思うことがあります。そんな時、超広角のレンズを持っていれば、話はとても簡単です。景色にレンズを向けて、シャッターボタンを押せば良いだけです。ところが、そんな超広角のレンズを持っていなかったら、どうしたら良いでしょう?そんな時はしょうがないから、少しづつ違う方向にカメラを向けて、何回もシャッターを押して、何枚も何枚も写真を撮ります。そして、最後にそんな写真を合成して、広い景色が写った写真を作ります。
ところが、「最後にたくさんの写真を合成」しようとすると、「それぞれの画像が(互いに)少しづつ歪んでいて、少しづつ写っているものが違っていて」なかなか上手く重ならないことに気づきます。それぞれの画像が少しづつ矛盾していて、一つの整った景色にしようとすると、なんだか食い違ってる部分がそこらかしこに現れてくるのです。例えば、右の写真を眺めてみれば、そんな矛盾だらけの写真であることがわかると思います。そして、広い・長い文章を書くということは、(少し)こんな広い景色が写った写真を作り出すことに似ている、気がします。
一言ふと漏らすコメントは非常に的確なものであるのが、普通です。なぜなら、クローズアップされた狭い景色の中には特に「歪み」も「矛盾」もないのが普通です。だから、そんな景色を描写した短い言葉・文章というのは、見事なまでに「その狭い世界」を写し取っているはずだと思います。
ところが、もう少し広い世界を写し取ろうとすると、つまり、もう少し長い文章を使って大きなものを書こうとすると、途端に色んな「食い違い」が見えてきます。一枚の写真や短い言葉では、写真や言葉として上手く世界を(違うものに)写し取ることができたはずなのに、それらをたくさん組み合わせて一つのものにしようとした途端、たくさんの歪み・矛盾を眺めなければならなくなります。
それらの歪みや矛盾というのは、もしかしたら、対象物の複雑さにもとづくものかもしれません。つまり、対象物の歪みや矛盾というものなのかも知れませんし、あるいは、そんな複雑な景色を眺めた時に、景色を眺める自分自身の中に生まれる歪みや矛盾なのかもしれません。
それらの歪み・矛盾・食い違いなどを何とかつなぎ合わせて一つのものにする、というのが長い文章を書くということなのかもしれない、とふと思います。だから、長い・広い文章を書くということは、そんなたくさんの歪み・矛盾と向かい合わざるをえない辛い作業だろう、と想像したりします。 ただし、もしも書かないでいれば「その書く辛さ」に向かう羽目に陥ることもないのかもしれませんが、「書こうとして始めて気づくこと」や「書き終えることでようやく発見すること」を見ることもできないのかもしれない、とも思います。