2010-03-07[n年前へ]
■「hirax.netサーバ(マシン)売ります」と「トービンのq」
hirax.netサーバを新サーバ構成に入れ替えた(仮想化PC上で動作させるように替えた)ことに伴い、ここ2年ほどhirax.netの中核を担っていた(しかも、ここ一か月は全てを担っていた)「キューブPC」を廃棄(不燃物として毎週一回の回収日に捨てることができる程度の大きさですから)、ないし、売却しようと思っています。つまり、「hirax.netのサーバ(マシン) for Sale」「hirax.netサーバ(マシン)売ります」ということになります。
この「キューブPC」は、小型のキューブタイプの"WINDY TIPO"というベアボーンPCで、Pentium 4 2.4GHz、2GB RAMの300GB HDというスペックです。ハードディスクの中身には、hirax.netで稼働させていた各種WEBアプリケーション(ソース)、および、そこから呼び出していた連携用(各種言語による)自作ライブラリ・アプリケーションなどが全て含まれています。
それだけなら良いのですが、このPCには、アクセスログなども含まれています。さらに、ファッション雑誌WEBアプリではアクセス元の都市解析と流行分布解析、なども行っていましたし、顔処理画像処理アプリでは、抽出顔画像からの年齢解析・顔中の色分布解析・地域ごとの化粧方法の差異解析・顔タイプ情報の蓄積・嗜好解析等をバックエンドで行っていました。つまり、破棄ないし売却する前に、完全に破棄しなければいけないデータも含まれているのです(ある期間より過去のデータに関しては、すでに、全て削除しています)。
WEBアプリケーションのソースは、(ハードウェアを売るなら)オマケにつけても良いかななどとは思いますが、(データ抹消ミスをしないためには)ハードディスクをひとまず完全消去してしまうのが、私の手間は一番手間が少なくて済みそうです。また、Pentium 4 2.4GHz、2GB RAMの300GB HDという程度のスペックのPCでは、普通に動くような状態でも、買いたいという人が現われるかどうかすら怪しいような気がします。ましてや、電源を入れると、いきなり各種WEBサーバーが起動してしまうような状態では、買い手が現れるとは思えません。
そんなことを考えているうちに、ふと「トービンのq」を思い出しました。
ジェームズ・トービンという金融経済学者が主張した”トービンのq”っていう理論があります。トービンのqというのは、すごく単純な分数で、分母が「その会社とまるまる同じものを、もうひとつ作るのにいくらかかるかという再取得費用」で、分子が「株を全部買い占めるためにいくらかかるかという株価総額」というものです。
この分数qの値は、1より大きいのが原則なんです。つまり下部を全部買い占めてその会社を手に入れるほうが、単にハコモノを作るよりも、ずっとお金がかかるということです。
小島寛之@「理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! 」 (参考書評)
なるほど、「PC売値/パーツ代総額」が1を下回ることなんて、あり得ないですものね。hirax.netのサーバ・マシンの場合、意外なことに、ハードディスクやメモリをバラして売ってしまった方が(ソフト部分には値段がつかないでしょうし)、高額になるような気がします。そうすれば、メモリ代金だけでも数千円程度にはなるように思います。しかし、一括で売ろうとすると、買い手すら現れないような気もするのです。売り手からすれば、「あり得ない状態」ですが、「買い手」からすれば「要らないものは要らない」わけですから、しょうがありません。
これは、まさに「トービンのq」が1を切っている状態です。PCパーツ代・それらを組み合わせたPC上で動くシステムトータルでは買い手が現れず売買が成立しないのにも関わらず、サーバ・システムを「切り売り」すれば値段がつき、全体よりも高い価格になる…という状況です。
建物とか設備とか機械とかを全部そろえて、さらに、同じような能力の人間を雇ったとしても、(中略)働く人たちの間で共有された情報や蓄積された経験、あるいは、築いた信頼関係と言った「企業のなかにあるプラスアルファの価値」が株価に反映されているわけです。
小島寛之
目には映りにくい「働く人の間のつながりといった社会的な価値あるもの」も、高い株価というカタチできちんとその価値が目に見えるモノにされているんだ、と実感してきました。徒然なるままに、ノートPCに向かい、心に浮かんだことをそこはかとなく書いてみました。、「hirax.netサーバ(マシン)」は「トービンのq」が1以下の状態でそのまま売るか、バラして「切り売り」するか、どうするかを考えているところです。
2011-02-13[n年前へ]
■「社会をよくできる論理」の魅力と危険性
「社会をよくできる論理」の魅力と危険性〜小島寛之、から。
僕がマクロ経済学に飛びついたとき、現実の世界は不況で不安定になっていたわけです。そんなとき、「公共事業をやったり、お札をいっぱい印刷したりすれば安定な世界に戻るんだ」というケインズ理論はとても魅力的で、僕の”こうあってほしい世界観”に近くて、あこがれとか高揚感に近い楽しさを感じたんですね。
そこで思ったのは、自分がほしがっている”あまりに魅力的な結論”を与えてくれる適度な理屈・ロジックに飛びついちゃったんじゃないか。胃の痛くなるような検証をするとか、自分に最も不都合なケースを想定するとか、科学的検証の基本中の基本を無意識に避ける性癖が、あの人たちの中にあったんじゃいかな、って思ったのです。そして、それは僕の中にあるかもしれない、という恐怖感が起きました。
2011-05-18[n年前へ]
■「因果関係」という作用を与える(瓜二つの)「物語と科学」
無料で購読できる最高のグラフ誌「GRAPHICATION」 から、池内了の「子どもの遊びにおける物語性と科学性」を読みました。冒頭のこんなフレーズを読みながら、少し首をかしげてしまいました。
幼児期から小学校までの子どもが好きなものは物語と科学(理科)だろう。この二つは一見すると無関係なようだが、実は重要な共通点がある。想像力を刺激するという点だ。
なぜ、首をかしげてしまったかと言えば、それは「物語と科学」は無関係どころか、とても「繋がりやすい」ものだ、という印象があったからです。科学も物語も、そのどちらもが「因果関係を与えてくれる」瓜二つの作用を持つものだという意識があったので、「一見すると無関係」という言葉に違和感を感じてしまったわけです。
「普通、人間のいちばん好きな考え方は因果関係です」と言うのは心理学者の河合隼雄の言葉です。そして「人は因果関係を納得しやすい。というか、因果がないと、物事の関係性を納得しにくい生き物なんだよね、人って」と書いたのは、小説家の新井素子です。
だからこそ、「(人の心や頭を)納得させる因果関係」や「”こうあってほしい世界観”や”自分が欲しがっている魅力的な(適度な理屈・ロジックをまとう)結論”」を与えてくれる(ように思わせる)疑似科学という物語は人を惹きつけるのです。
僕がマクロ経済学に飛びついたとき、現実の世界は不況で不安定になっていたわけです。そんなとき、「公共事業をやったり、お札をいっぱい印刷したりすれば安定な世界に戻るんだ」というケインズ理論はとても魅力的で、僕の”こうあってほしい世界観”に近くて、あこがれとか高揚感に近い楽しさを感じたんですね。
そこで思ったのは、自分が欲しがっている”あまりに魅力的な結論”を与えてくれる適度な理屈・ロジックに飛びついちゃったんじゃないか。
小島寛之
科学も物語も、そのどちらもが「世界」を描いてるように見える巻物です。「因果関係」という作用・納得を与える(かのように見える)瓜二つの存在です。
2012-05-10[n年前へ]
■「適度な理屈」と「心を動かす物語」
「心を動かす何か、あるいは、感情を動かす力のベクトル」…そんな「何か」に「それっぽい論理」をトッピングすると、ひとりひとりを動かし…そして多くの人を動かします。
僕がマクロ経済学に飛びついたとき、現実の世界は不況で不安定になっていたわけです。そんなとき、「公共事業をやったり、お札をいっぱい印刷したりすれば安定な世界に戻るんだ」というケインズ理論はとても魅力的で、僕の”こうあってほしい世界観”に近くて、あこがれとか高揚感に近い楽しさを感じたんですね。
そこで思ったのは、自分が欲しがっている”あまりに魅力的な結論”を与えてくれる適度な理屈・ロジックに飛びついちゃったんじゃないか。
小島寛之
人を「動かす」ものが「良い」とか「悪い」とか、人を動かした「意志決定」が正しそうか・間違っていそうか…実に難しい問題です。