2011-09-10[n年前へ]
■「元気」と「現金」があれば何でもできる
昼過ぎ、小高い港の見える丘を降り、横浜赤レンガ倉庫の前を通ると、青空の下、海と赤レンガに囲まれた広場でタイ・フェスティバルをやっていました。
ビア・シン片手に(師匠と若リーダーというシチュエーションの)ムエタイの試合にハラハラしたり・楽しんだりしながらステージにかぶりつきつつ、最後に、愛すべきエンターテイメントなムエタイ勝者の「お言葉」を聞きました。
「元気があればぁ、何でもできるぅ〜!」
「現金があればぁ、何でもぉ買えるっ〜」
「いちぃ、にぃ、さぁぁぁん、だぁぁぁ〜」
夏の終わりの空の下、「現金があればぁ〜、現金があればぁ〜、何でもぉ買えるっ〜」という言葉を聴きつつ、右手を空へ・上へと突き上げます。
タイ・フェスティバル@横浜赤レンガ倉庫 は9/11(日)の20時まで開催されています。その近くにある横浜美術館や日本郵船海岸通倉庫では現代アートの展示フェスティバルも行われていたりします。明日(9/11)は、横浜を散策し、少し歩いてはつまみ食い・飲みをし、そして空を見上げる一日にしてみるのも、少し良いかもしれません。
(横浜を舞台にした「コクリコ坂から」のキャッチ・コピーを「上を向いて歩こう」にしたことについて)前向きに歩いていくのはしんどい時代、けれど、後ろ向きもイヤ。それなら、上だ!ということです。みんなが下を向いている時代だし、上を向くのも良いと思う。
2011-11-21[n年前へ]
■「日米修好通商条約で”関内”が開港地に選ばれた地形的な理由」と「”関所”の内側だから”関内”という理由」
TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関するニュースを聞いた時、約150年前の日米修好通商条約を思い出しました。そして、「日米修好通商条約」を連想した直後、さらに思い起こしたのが「日米修好通商条約を受けて、江戸幕府が横浜の関内を”開港地”として選んだ理由」です。
東神奈川(神奈川宿)辺りの港でなく、関内の辺りを開港地として選ばれたのは、山に囲まれ東海道を通る人たちから、”外国”が見えないから。今の横浜港、関内の辺りは、つまりは一種の「出島」です。他の場所とは隔離されて、外からは見えない・見られない、そんな場所だったのです。
地形図を見ながら考えた
「出島」に行き来するためには、もちろん「関所」を通らなければなりません。だから、「関所に囲まれた”内側”を指して”関内”と呼ばれることになりました。そして、当時は、その外側が”関外”と呼ばれていた、というわけです。横浜の山下公園の「港」に続く「関内」の街の名前は、「関所の内側」から来ていたのでした。
海と運河と川に囲まれた横浜に入るために…橋が架けられました…幕府はこの橋の畔に関所を設けました…これより内側の”横浜区域”は”関内”とよばれ…
神奈川宿と横浜
地形図を見ると「なるほど!」と納得できる「歴史(過去の判断と結果の積み重ね)」があったり、「歴史」や「地理」を知ることで自然に納得できる「名前(地名)」もあったりするのです。
(twitter から)
2012-01-14[n年前へ]
■昔の横浜・東京がいつも夜霧に包まれていた「理由」とは?
「学生の可能性を可能にするポータルサイト ワンダーノーツ(Wonder Notes)」に「昔の横浜・東京がいつも夜霧に包まれていた「理由」とは?」を書きました。
最後に書いたのは「どんな時代に生まれたいですか?」という「質問」です。…誰も「どんな時代に生まれるか」を選ぶことはできないのですけれど、ね。
何十年も前、横浜や東京という街は、一年のうちのかなりの日数「霧」に覆われていました。 夜になると白い霧が、時に不気味に、あるいは、時にロマチックに街を覆い出す…横浜や東京という街は、そんな場所でした。 だから、昔の懐メロ(懐かしのメロディ)には「夜霧よ今夜も有難う」「東京夜霧」「夜霧の第二国道」といった、タイトルの歌が、多く残っています。 けれど、そんな「霧に覆われた街」を、最近は想像することが難しくなってしまいました。
東京や横浜の街を霧が頻繁に覆っていた昔の時代…東京や横浜から霧が消えてしまった今の時代…あなたは、どちらの街を生きたいと思いますか。どちらの時代が好きですか?
2012-05-18[n年前へ]
■3Dアダプタ付きiPhone4で撮影した横浜 ザ・立体ちっくな六角橋商店街
『デイリーポータルZ・プレゼンツの(富士通研究所製)3D写真アダプタを試してみました。』で「3Dアダプタ付きiPhone4」を仕立てたので、(夜のドッキリ市開催間近の)横浜 六角橋商店街を立体的に撮影しに行ってみました。
2012-11-24[n年前へ]
■横浜「関内」を(かつて日本国内=関外と隔ていた)関所跡に行ってみた。
『横浜「関内」を(かつて日本国内=関外と隔ていた)関所跡に行ってみた。』を書きました。
約150年前の頃には、この橋の海側には世界へと続く道があり、山側には江戸から明治そして大正へと進む日本が広がっていました。今日は、横浜関内と日本国内=関外とを隔ていた関所跡に行ってみました。