2009-03-02[n年前へ]
■食べること・生きること
週刊SPA! 鴻上尚二 ドン・キホーテのピアス「『おくりびと』を観て、文化の力を感じた」より
映画(おくりびと)には、じつにたくさんの食事シーンが出てきます。
それは、「死」の対極にある行為、つまりは生きていくための行為です。
そして、じつは生きていくことは、他の生物の「死」を食べる行為なのだという、やはり私たちは「死」から逃れられないのだ、ということを教えてくれる大切なシーンなのです。
ふぐの白子を焼いて食べるシーンも、フライドチキンを黙々と食べるシーンも、生きるとは何かを教えてくれます。じつに象徴的なシーンです。
2009-07-18[n年前へ]
■「おくりびと」と「セロ弾きのゴーシュ」
DVDで「おくりびと 」を観た。この映画の原作となった「納棺夫日記 」はすでに読んでいたのだが、想像していたよりも原作に沿った内容だった。
「原作に忠実」とまでは言えないかもしれないが、「納棺夫日記 」に書かれている(主人公の)状況やエピソードを、可能な範囲の変更・暗喩によって「一本の映画」に上手くまとめあげているように感じられた。少なくとも、この映画のエッセンスは、原作に書かれていることの中にすべてある、と思う。
ところで、映画の作り手が「どのエピソードをどのように変えていったか」を考えつつ見るというのは、変かもしれないがひとつの鑑賞法だと思う。
たとえば、春、東北地方の山に囲まれた平野で、主人公がチェロを弾くシーンがある。それは、ふと、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を連想させる。そして、そんな連想をさせることも意識しつつ、そのシーンは撮影されているのではないか、とふと考えた。
「納棺夫日記 」の中で、「永訣の朝」や「眼にて云ふ」といった宮沢賢治の詩が引用される。その「宮沢賢治」の詩が、この主人公のチェロに繋がっていったのではないか、とふと感じた。他にも、主人公が(かつて)したかった仕事を原作と重ねるためとか、成長譚という部分が重なるからとか、いくつも「それらしい」理由を挙げることはできる。
もちろん、そんな理由は「ただの想像」に過ぎない。しかし、そんな「人それぞれ」の連想をしながら映画を眺めるのも良いのではないか、と思う。
2010-02-01[n年前へ]
■「しゃべり過ぎの時代」と「いしぶみ」
映画「おくりびと [DVD] 」のモチーフにも使われた、向田邦子の「男どき女どき 」に収録されている「無口な手紙」から。
現代は、しゃべり過ぎの時代である。
昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある。男は、自分の気持ちにピッタリの石を探して旅人にことづける。受け取った女は、目を閉じて掌に石を包み込む。
2010-02-02[n年前へ]
■「深い後悔」や「苦い失敗」
本当に引用したい一文は、自分の手帳に書き写すだけ、ということが多いものです。
小山薫堂は、映画「おくりびと 」の脚本を書いた人です(それ以外のことも数えきれないくらいしている方ですが)。その「おくりびと」に関する一節を、小山薫堂の「もったいない主義―不景気だからアイデアが湧いてくる! (幻冬舎新書) 」から、1番ではないけれど、気になった言葉をここに書き写しておくことにします。
ある映画評論家の人からはこう言われました。「あの脚本は誰が撮っても面白くなったに違いないけれど、監督が滝田洋二朗だからこそ、さらに輝きを増した」
滝田監督はピンク映画の出身です。だから、職業差別を受けた経験がある。そのコンプレックスが、この映画に反映されているのではないか。(中略)差別される側の痛みを、滝田監督は実感としてよく理解していたのかもしれません。
最初に僕が石文というものの存在を知ったのは、向田邦子さんの「無口な手紙」というエッセイを読んだときでした。