2001-01-25[n年前へ]
■Left Eye
カンバスから飛び出す「名画の世界」でホントのところ書いてみたかったのは、色んな見方が世の中にはあって、まずは同じ場所から眺めてみてからその後に他の場所から眺めてみるのも良いのかな、ということだった。でもって、次の日の英語のレポートの宿題は、片目で覗くカメラと視点の話なんかを書いてみた。
で、次の日は「Pandora's box + 掌の中の答え」で、世の中には二つの状態が常に存在していて(以下略)
じゃぁ、今日は何を書いたかはさておき、Right Eyeのリンクでもしておこう。
「この観劇の前日にある友人が亡くなったこともあって,人・右目の死が琴線に触れた.シャッターが落ちるように,一瞬でいなくなってしまった彼.正しい目(Right Eye)を亡くして,残された目(Left Eye)は何を見つづけよう.何が見えるのだろう.」from まほろの観劇記録1998年 (リンク)(リンク)
2001-09-24[n年前へ]
■強炭酸水のみどり
というわけで、今日、太陽に照らされて目に突き刺さるような緑(翠?)を見ながら、この感覚は強い炭酸水を飲んだような感じで、何だかすごいなぁと思ったのだった。
でもって、そんな強烈なみどりはデジカメに写せるわけもないので、シャッターは切らなかった。
2001-12-04[n年前へ]
■残された夢を見続ける義務がある
キャパが自分の撮った「戦死する最後の男」というタイトルの写真を指して、「私は戦死する最後の男の写真を撮った。この最後の日、もっとも勇敢なる兵士の数人がなおも死んでいくだろう。生き残ってゆくものは、死んでゆく彼らをすぐ忘れさるのであろうか」と書いた言葉を見た。
あぁ、これが野田秀樹の"Right Eye"の中の「あれからもいろいろなものが目の前で死んで後へ通り過ぎて行った。残された私と残された瞳は今日もまた目の前のものだけを見る、君たちと右目の代りに。それでも、残されたものは、残された瞳で、残された夢を見続ける義務がある、いや自由がある。あのカメラマンが、それでもシャッターを押したように。あの戦場の光の真下で、悠久の時へ向けて」という最後の台詞の本歌なんだなぁ、と思った。
そういえば、この前美術館に行った時、ドビュッシーの「夢」がずっと静かに流れていた。それが、とても記憶に残ってる。
2001-12-09[n年前へ]
■CoolPix775壊れた?
金曜日に会社の駐車場とPAの駐車場で二度ほどCoolPix775を落とした。で、何ともないと思っていたのだけれど、シャッターを半押ししようとすると、いきなりシャッターがきれてしまう。
「落としすぎだから、紐を付けて、首にぶら下げときなさい」と言われれば、その通りにしてきた私なのに、何としたことだ。このままでは、家には修理に出さないままのデジカメが3台になってしまう…。どうしよう?
2002-01-01[n年前へ]
■どれも、みんな、「今日見た景色」
今年もよろしくお願いします。
昨年の二月頃から、ほとんど毎日、その日眺めた景色を写真を撮ってきました。といっても、ポケットに入れたデジカメでとりあえず目の前のものをファインダーの中に入れて、シャッターを押してきただけです。ただ、ボーっと「今日」眺めた目の前の景色をデジカメで撮り続けてみたわけです。そんな写真の一部を並べてみたのが、上のコンタクトプリントです。だから、上の写真はどれもみんな「今日見た景色」です。
どれも「今日見た景色」ではあるのですけど、今眺めてみるとどれも「昨日見た景色」になってしまいました。昨日の"News"が「新しいこと」でなくなってしまっているのと同じです。いつも、「今日」という日を過ごしているはずなのに、その日見た景色が「今日見た景色」でなくなっていくのは少し不思議なことです。とはえ、「昨日見た景色」が「今日見た景色」と違うわけではないし、景色を眺めている私もやっぱり同じ私です。だから、やっぱりどれも「今日見た景色」だと思うのです。
さて、2002年もまた「今日見た景色」に向けて私はシャッターを押し続けると思います。そのファインダーの中に見るだろう「明日見る景色」も、やっぱりその日その日の「今日見た景色」です。2002年の明日見る「今日見た景色」はどんな景色なのでしょうか?ずっと夢見てきたような景色が、そこには見えるのでしょうか。それとも、想像したこともないような景色を私は眺めているのでしょうか。
何はともあれ、今年もよろしくお願い致します。
jun hirabayashi jun@hirax.net