2005-04-15[n年前へ]
■今日の「寂しがりや仲間」
周りの人たちを眺めてみると、ずいぶん忙しそうな人たちがいる。なんだか、仕事もお金と同じで「寂しがりや」のようだ。お金は「お金が少ない貧しいところ」からはすぐに逃げ出して、仲間がたくさんいる「お金がいっぱいあるところ」に集まるし、仕事も「仕事がいっぱいあるところ」に集まっている。(はたから見てると)面白い。
2005-04-17[n年前へ]
■紙と仕事や伝言の量
紙が素晴らしい大きな理由の一つは「紙がモノである」ということだと、ふと考えた。電子ペーパーの資料を読みながら、そんなこと考えた。
例えば、かつて「本」は知識という形のないものを「本」というモノに物体化した。あるいは、「(紙のような媒体の上に描かれた)絵画・写真」といったものは「景色や世界という形がありそうで、その姿をなかなか形にすることができないもの」をモノという物体に変えた。
あるいは、例えばポストイットはよく伝言やメモを貼り付けたりすることに使われる。それが素晴らしいのは、伝言やメッセージを「一枚のポストイット」というモノとして姿を現させることである。モノとして伝言やメモが姿を見せていれば、人はそれを把握しやすいに違いない。だから、ポストイットはそういう使われ方をし、そして大ヒット商品となったのだろうと思う。
伝言のポストイットや、紙書類や、写真や絵画といったモノとして姿を現された「何か」が、電子化の流れの中でまたモノとしての姿を消そうとしている。モノの姿をしているからこそ(少なくとも二十世紀までの)人が把握しやすかった何かがまた姿が見えないものになろうとしている。
「しかし、例えば机の上には仕事の紙書類があふれ、ディスプレイはポストイットの伝言で埋まっているじゃないか?」「そんなに世の中に紙が溢れているのだから、やはり紙より電子データにしないとダメなんじゃないの?」と思うこともある。だけど、それは紙が悪いのではなくて、単に世の中の「仕事や伝言」が多くなりすぎていることが原因かもしれない、と思う。それらの「仕事や伝言」が紙というモノとして姿を現しているから、紙が悪者に見えるけれど、それは紙というモノの形をした「何か」が多すぎるからかもしれない、と思う。電子化されたデータベースはえてして単なる「ゴミ箱」になりかねない。電子化 ≒ " > /dev/null"というようになってしまったりもする。それは、「何か」のモノという姿を変えたのではなくて、「何か」というモノの数が単に多いから捨ててしまったというだけだ。
もしかしたら、「私が電子メールにすぐに眼を通したり返事を書いたりできない」ことへの言い訳かもしれないですけれど、ね。電子メールの返事は必ず書くのですが、時間がかかるんですよ…、処理するまでに…。
2005-06-05[n年前へ]
2005-06-15[n年前へ]
■今日書いたメイル 「アシタノアタシ」
今日書いたメイル 「アシタノアタシ」 | |
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2005-07-05[n年前へ]
■下丸子
計算の高速化手法(超入門編)を学んでいると、パズルのように楽しい。もし、計算プログラミングを仕事にしていたならば、とてもはまってしまいそうだ。もちろん、そんな風に面白く見えるのはきっと超入門編だからなんだろう。
今回のようなItanium 2 でなく、次はPowerPC G5の場合も学んでみたくなる。