2009-07-19[n年前へ]
■「欠点」と「美点」
寺田寅彦の「柿の種 (岩波文庫) 」から。
自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡(うしな)われるせいではないかと思われる。もし、「この一文について論ぜよ」というレポート課題を与えられたら、一体どのようなことを考え・書くだろう。
「欠点」は自覚すると、改善はされても消えることがなく、「美点」は自覚すると、姿なく消えるのだろうか。欠点と美点は、1枚のコインの裏表のような関係にあることが多い、とも思う。寺田寅彦を洞察をこの一文に重ねてみると、そこから一体どんな推論ができるのだろうか。
2009-09-16[n年前へ]
■直観的に結論を先に決めてしまう人間
グラフィケーションで連載された11編の対談が収録された「科学技術を考える 」から、坂村健の言葉。
私は予定結論的推論機能と言っているんですが、要するに人間の場合は、直観的に結論を先に決めてしまうんですよ。例えば物を買うにしても、欲しいと思った時、代替そこで結論は決まっているんです。だけど、買うに至るには頭脳の理解と同意がないと、買う意思決定ができない。そこで、頭脳が後からついていって、あたかも演繹的な推論をやっているふりをしながら予定結論にどうやって近づくかという道を探している。その道筋が頭脳を満足させれば、買うと決まるわけです。
2010-06-13[n年前へ]
■「本当の理科人間」
「本当の理科人間」に限らず、「本当の文科人間」でも同じではなかろうか、とも想像する西村肇氏の言葉から。
本当の理科人間は理屈を言い争うディベートを好みません。どんな結論にも理屈はつけられるので、このようなコトバによる議論が、意味ある結論に導くとは思わないからです。理屈を聞いたり・言ったりするよりも、「動く」ものを作り出すことが好きだ。「こういうものがあったらいい」と思えば、実際に作ってみればいい。もしかしたら、そういうものも「物証」のひとつになるのだろうか。それは、「本当の理科人間」に限らず、「本当の文科人間」でも同じなのではないだろうか。
理科人間の議論は一回で論戦を決着できる物証の提示、あるいはそれから反論の余地なく導かれる推論の提示です。
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