2008-05-28[n年前へ]
■やりたいことと売れること
やりたいことと売れるというのは違うね。…だけど売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭割る~い奴もわからなきゃけないってことだぜ。
みうらじゅん
そこまでをやりたいの。
西原理恵子
from ユリイカ 2006/07号 p.76
2008-06-30[n年前へ]
■「競馬」と「資本主義」
「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。
競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン
AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。
2008-08-13[n年前へ]
■しりあがり寿の絵の上手さに驚く
しりあがり寿というと、西原理恵子との「画力対決」が面白かった。西原理恵子も「絵が下手で汚い」を「売り文句」にしつつ、とても上手く絵を描く。しりあがり寿も、西原理恵子と「画力対決」をするくらいなので、実にテキトーに絵を描くような印象が先行するマンガ家であるように思う。
しりあがり寿の原画展に行った。紙の上の隅から隅までが、本当に見事にレイアウトされ、さらに緻密に線が描かれていてびっくりした。プロなのだから上手いのは当たり前としても、それにしても上手すぎる。小さく縮小された雑誌あるいはコミックで見るのと、原画とは本当に大違いだ。しりあがり寿は、実に細かな計算をしながら絵を描いていたことに驚かされた。
2008-10-12[n年前へ]
■鴨志田 穣 「遺稿集」
2007年3月20日に腎臓ガンで亡くなった鴨志田 穣の「遺稿集」 の最後、最終章はこんな風に始まる。
妻はマンガ家だった。西原理恵子の鳥頭紀行などを、違う側から見たこの本は、2007年3月13,20日にオンラインで公開された最終章を読むためだけにでも手に取ってみるといいと思う。たぶん、そこに綴られた内容に引き込まれると思う。
彼女と初めて出会ったのはタイのバンコクであった。
私とくらした最後の半年間西原理恵子が鳥頭紀行で描いたタイやアマゾンの風景に、あるいは西原理恵子が写る写真に、西原理恵子が描かなかった一面が重なってきて、さらに深く複雑な色合いに染まって見えてくる、かもしれないと信じる。
彼は詩をかいていたらしい。
ほめて
やろうと
思うけど
人生は
いっつも
全然
間に合わない
西原理恵子 「できるかな」
2008-12-04[n年前へ]
■ぼくらはどういう状態にいたいのだろう?
Rubyのまつもと氏「エンジニアに安住の地がなくなってきている」と警鐘という記事を読む。
情報の格差というものがある。それは解消すべきともいわれるが、モノが高いところにあれば、位置エネルギーが発生し、電気を起こしたりすることができる。情報の場合も、上の方やまんなか辺りにいれば、位置の差でエネルギーを取り出せる
まつもとゆきひろ
この言葉を読むと、以前「競馬」と「資本主義」で書いた、(AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で岩井克人が書いていた)「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は ”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」といった言葉を思い出す。
”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれているのだと思っている。いや、現在どころか、はるかな昔からそうだったに違いないと信じている。そして、この事実は技術者の志向と実は相反することが多いのではないか、とも思うことがある。
「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、多くの場合、”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」ということは、つまり、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
しかし、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの「間」に立つのなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易だろう。
ということは、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
「競馬」と「資本主義」
ぼくらはどういう状態にいたいのだろう?位置エネルギー、ポテンシャルを高めたいのだろうか、それともエネルギー変換効率が良い場所にいたいだろうか。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
「技術的満足」と「大きな利益」は両立するのだろうか。そんなことができるのだろうか。・・・きっと、その答えは自分で探すしかないのだろう。
そこまでをやりたいの。
西原理恵子@ユリイカ