2008-06-30[n年前へ]
■「競馬」と「資本主義」
「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。
競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン
AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。