2006-11-03[n年前へ]
■「命という字」「イメージ・デザイン」
「命という字」「イメージ・デザイン」 from n年前へ.
「人はね、叩かれてナンボなんだよ。命という字はね、人は一ど叩かれる、と書くんだよ。だからね…オレ、何が言いたいのか自分でも判らん。 ガッツ石松
「形にしたいこと」をラフスケッチのように描いてみる。
2007-08-19[n年前へ]
■「画像処理+Wiki」WEBアプリのαスケッチ版リリース
「画像処理+Wiki」 WEBアプリのαスケッチ版をサーバに置き、アクセス可能にして、基本デザインの確認・問題出しを始めました。アクセス可能にしたつもりではあるのですが、パス設定など不十分なところがたくさんありそうです。また、データアクセスに際し、現在時点ではキャッシュ処理を有効にしていないため、初回ページアクセスに非常に時間がかかります。
とりあえず、「わかりやすく・単純」にしようとしたら、ここ何日かの間にWiki部分がほとんど見えなくなってしまいました。
ところが、戦闘的学友は闘争に忙しすぎて授業に出ておらず、河合の顔が分からないという。
。仕方なく図書館で河合の著書を借り出し、後ろの方に載っていた著者プロフィールの顔写真をコピーして回した。 ものすごく粒子の粗いコピーで、人相はよく分からない代物だった。
2008-04-08[n年前へ]
■印刷の企画・デザイン・制作に関する「技術向上委員会」
印刷の企画・デザイン・制作に関する「技術向上委員会」
2008-04-20[n年前へ]
■NEC「LaVie G タイプL 木村敏子・野口アヤ・森本千絵デザインモデル」
NEC「LaVie G タイプL 木村敏子デザインモデル」「野口アヤ(cookie fortune)、森本千絵(goen)コラボのLaVie G」
2008-05-29[n年前へ]
■「言葉を解釈する文章」と「眼で見る文章」
南伸坊の「ごはんつぶがついてます」中で宮武外骨に関して書いた文章を読み、「あぁ、そういうことなんだよなぁ」と感じた。
一般に「頭がいい」とされる人は、説明のできる人であって、つまり言葉でわかっている人、耳の人のことです。ここで言っている「耳の人」というのは、「音を聞く器官としての耳」というよりは、「言葉を解釈する器官としての耳」というような意味合いだ。本当に素の文字の羅列としての言葉だけを受け取る器官というニュアンスである。
南伸坊はこんな感じ方に対する説明を書く一方で、それとことなる「解る」をも並べ書く。
論理をつみあげていって、何かを解(わか)るというのではなく、何かをじっと見ていたり、何かをそこらに並べて、一望していることで、解ることというのがあります。南伸坊は、「こういった感じ方をする人々は耳の人ではなく眼の人だ」と名付ける。
さて、眼の人である宮武外骨は、文章も眼で書いています。……つまり書かれている「内容」ではなくて、書かれ方が「内容」であるというような意味合いにおいて、これは眼の文章なのです。南伸坊が言う「眼の文章」というのは、レイアウト・タイポグラフィー・イラストレーション……といったものがすべて組み合わさった総合体を指している。
「ごはんつぶがついてます」 p.192
さまざまなWEBページを眺めるとき、ページごとにスタイルも違っていて読みづらさを感じる時がある。もしかしたら、そう感じる時は「耳の人」寄りな頭になっているのかもしれない。そして、スタイルシートでデザインされたページを眺めていて、何だか色々なものの組み合わせが合わさった気持ちよさを感じ、何かを読み取ったつもりになりそうなときは、きっと、「眼の人」よりになっているに違いない。
そんな、「言葉を解釈する文章(あるいは読み方)」と「眼で見る文章(あるいは見方)」があって、それはそれぞれ得意・不得意な分野があるのだろうと思う。
論理を積み重ねるようなものが得意な方、曖昧模糊としたものを明瞭に浮かび上がらせることが得意な方、その両方の感覚を兼ね備えられれば良いのかもしれないが、現実それは無理な話だろう。せいぜい、その時の自分の読み方が「耳の人」寄りなのか「眼の人」寄りなのかを意識しておくことくらいしか、できないのかもしれない。
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