2003-02-02[n年前へ]
■写真とことば
集英社新書の「写真とことば」飯沢耕太郎を買いました。その中には「リアリズムはカメラという名の四角く冷たい機械の中にあるのではなくて、写す人間そのものの世界観と表現方法の中にひそんでいるのである」という言葉がありました。
わきさんが引用した「僕の写真もそこにあるものをそのまま撮ったというものではない。...そして結果的に出来上がった写真、つまり再現された写真というものは、その人間なりの主観によって認識された、その人間の世界ということができる」という台詞にもとてもとても惹かれます。
ゴミ捨て場でカメラを拾って、それから写真を撮るようになって、そしてそのカメラメーカーに気づいたら入っていて、そして少しの(大きな?)勘違いで電子写真製品に携わるようになった私は色々考えてしまいます。あの運河沿いの街でカメラを拾っていなければ、今頃何をしていたのかな、と考えてみたりします。
2005-06-14[n年前へ]
■「リアリズムとファンタジー」
週刊SPAに連載されている、鴻上尚史のドン・キホーテのピアスを読みました。
いい作品は、人生に対するリアリズムとファンタジーが同居しています。リアリズムだけでは苦しすぎるし、ファンタジーだけでは納得できないのです。 リアリズムは「人生をちゃんと負けた人間が感じるリアリズム」です。ファンタジーは「人生、やがて勝つという根拠ない確信に満ちたファンタジー」です。 この二つを同時に持つというのは、それは難しいものです。この後は、「けれど、これからはリアリズムとファンタジーを選び、自分なりに同居させる必要がある。それがいい人生にするコツかも」と書かれています。そういえば、前に「強弱」の定義について書いたことがあります。今日は、(日替わりメニューのように)こんな「強弱」定義をしてみることにしましょうか。それは、「リアリズム」と「ファンタジー」の両方を持っている人が強い人、という定義です。「リアリズム」と「ファンタジー」のどちらか片方だけしか持ち合わせていない人は少なくとも、強い人ではないという定義です。そんな人は「強い人」かもしれないし、「弱い人」かもしれないし、あるいは弱い人なのかもしれませんが、強い人ではない(と今日はしてみる)のです。
すると、「いい人生にする」ためには、結局のところ強くなるのが一番の近道だ、ということになります。そんなこと本当にできるのかな?と疑問に思うこともあります。「この二つを同時に持つというのは、それは難しいものです」と書かれているくらいですから、それは簡単なことではないのでしょう。私も、(kaco (カコ)さんへの返事として)「強弱」の定義で
実のところ、私は「カッコがつかない強い人」というものをその言葉の意味も含めてよく想像することができません。意味すら想像できないのですから、そんな人が実在するのかどうかなんて、全然わかりません。もしも、そんな強い人というものが実在するのなら、それは「人じゃない」んじゃないか、とすら思ってみたりします。 つまり、もしも「カッコをつけなければ」人は全て弱いと思っているわけです。そして、それとは逆に「強い人」というのは、もしかしたら「自分にカッコをつけてしまっている」のかもしれない、とも思うわけです。なんて書いてみたりしたわけで、「リアリズム」と「ファンタジー」を兼ね備えた強い人がいるなんて想像することができません。だけど、それでも、一人の中にだけでなければ、何人かを集めてみれば、そんなものを同時に持つことができるかもしれない、と思うこともあります。やっぱり、わからなくなってしまうことも多いですけれど。
2008-05-17[n年前へ]
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