2005-06-14[n年前へ]
■「リアリズムとファンタジー」
週刊SPAに連載されている、鴻上尚史のドン・キホーテのピアスを読みました。
いい作品は、人生に対するリアリズムとファンタジーが同居しています。リアリズムだけでは苦しすぎるし、ファンタジーだけでは納得できないのです。 リアリズムは「人生をちゃんと負けた人間が感じるリアリズム」です。ファンタジーは「人生、やがて勝つという根拠ない確信に満ちたファンタジー」です。 この二つを同時に持つというのは、それは難しいものです。この後は、「けれど、これからはリアリズムとファンタジーを選び、自分なりに同居させる必要がある。それがいい人生にするコツかも」と書かれています。そういえば、前に「強弱」の定義について書いたことがあります。今日は、(日替わりメニューのように)こんな「強弱」定義をしてみることにしましょうか。それは、「リアリズム」と「ファンタジー」の両方を持っている人が強い人、という定義です。「リアリズム」と「ファンタジー」のどちらか片方だけしか持ち合わせていない人は少なくとも、強い人ではないという定義です。そんな人は「強い人」かもしれないし、「弱い人」かもしれないし、あるいは弱い人なのかもしれませんが、強い人ではない(と今日はしてみる)のです。
すると、「いい人生にする」ためには、結局のところ強くなるのが一番の近道だ、ということになります。そんなこと本当にできるのかな?と疑問に思うこともあります。「この二つを同時に持つというのは、それは難しいものです」と書かれているくらいですから、それは簡単なことではないのでしょう。私も、(kaco (カコ)さんへの返事として)「強弱」の定義で
実のところ、私は「カッコがつかない強い人」というものをその言葉の意味も含めてよく想像することができません。意味すら想像できないのですから、そんな人が実在するのかどうかなんて、全然わかりません。もしも、そんな強い人というものが実在するのなら、それは「人じゃない」んじゃないか、とすら思ってみたりします。 つまり、もしも「カッコをつけなければ」人は全て弱いと思っているわけです。そして、それとは逆に「強い人」というのは、もしかしたら「自分にカッコをつけてしまっている」のかもしれない、とも思うわけです。なんて書いてみたりしたわけで、「リアリズム」と「ファンタジー」を兼ね備えた強い人がいるなんて想像することができません。だけど、それでも、一人の中にだけでなければ、何人かを集めてみれば、そんなものを同時に持つことができるかもしれない、と思うこともあります。やっぱり、わからなくなってしまうことも多いですけれど。
■裾野
外を歩きながら、ちょっと考えごとをする。「今日見た景色」をファインダーから覗きながら、
昨年の二月頃から、ほとんど毎日、その日眺めた景色を写真を撮ってきました。…どれも「今日見た景色」ではあるのですけど、今眺めてみるとどれも「昨日見た景色」になってしまいました。で始まる「少し前に書いたこと」を思い出す。
明日見る「今日見た景色」はどんな景色なのでしょうか?ずっと夢見てきたような景色が、そこには見えるのでしょうか。それとも、想像したこともないような景色を私は眺めているのでしょうか?