2001-11-30[n年前へ]
■George Harrison
"Little darling, it's been a long, cold lonely winter"なんて歌ってみたり。
そういえば、取手で「木の葉の色も変わっていたんだなぁ」と思いながら、サイモン&ガーファンクルのとある歌を思い出したけれど。う〜ん、題名は秘密だ。
2004-06-15[n年前へ]
■サイモン&ガーファンクルの新曲
Simon and Garfunkel, The Interview.三十年振りの新曲Citizen Of The Planetの一部を聴くこともできる。
Who am I to denyWhat my eyes can clearly see
2007-12-11[n年前へ]
■豚もおだてりゃ木に登る
東インド会社で働いていたジョン・スチュアート・ミル、経済学者として知られているミルの言葉で有名なものが、「満足した豚であるよりは、満足しない人間である方がよい。満足した愚か者であるよりは、満足しないソクラテスである方がよい(「功利主義」)」という言葉だ。
この言葉は、「太った豚より痩せたソクラテスになれ 」というフレイズとなり、東京大学の卒業式で大河内総長が発した言葉として、しかし実際には語られなかった言葉として知られている。
この言葉を見た時に思い出したのは、サイモン&ガーファンクルが歌っていた「コンドルは飛んでいく」だ。「カタツムリよりスズメの方がいい」「もしできるなら 、もちろんスズメになりたい」と歌い始められる「コンドルは飛んでいく」だ。こういった「○○よりは、××な方がいい」という希望の比較には、色んなバリエーションがありそうだ。
A man gets tied up to the ground,
He gives the world its saddest sound.
人は大地に縛られて、
世界で一番悲しい音を奏でる。
I'd rather feel the earth beneath my feet,
Yes, I would, If I only could, I surely would.
足の下に大地を感じていたい。 できるなら、足の下に大地を感じていたい。
よく何かを作ろうとする時に、こう思う。世の中には最初から「完成形」をイメージできる人もいる。その一方で、「完成形」はイメージできないけれど、「比較をし続け、いいと思うイメージを選び続けることで、完成形を作る」ことができる人もいる。
「完成」に近いのは、実は「最初から完成形をイメージすることはできないけれど、比較・推敲を続けることができる人」なのではないだろうか。「満足したソクラテス」よりも、「満足しない豚・満足しない人間」の方が、実は何かを完成させることができるのではないだろうか。
2009-12-27[n年前へ]
■「ドナドナ」と「コンドルは飛んでいく」
細見和之の「ポップミュージックで社会科 (理想の教室) 」が、とても奥深く面白く、まだまだはまっている。今日はまっていた部分は、「ドナドナ」という歌と、その歌詞が歌われた時代だ。「ある晴れた昼下がり 市場へつづく道・・・」と悲しげに歌われるあの、「ドナドナ」である。
ドナドナは、1940年にが米国に移住してきたユダヤ人、アーロン・ツァイトリンが(東欧ユダヤ人の日常語であった)イディッシュ語で作詞し、ニューヨークの劇場で発表されたものだという。細見和之氏がイディッシュ語版を翻訳した一部を抜粋すると、このような歌詞になる。
荷車のうえに子牛が一頭
縄に縛られて横たわっている。
子牛がうめくと農夫が言う
いったい誰が子牛であれとお前に命じたのか。
お前だって鳥であることができたろうに。
ひとびとは哀れな子牛を縛りあげこの子牛は、どう読んでも「人」である。日本語の歌詞より、ずっと辛く・苦しい歌だ。
そして引きずっていって殺す。
翼を持つものなら空高く舞い上がり
誰の奴隷にもなりはしない。
この歌が、(日本でほど知名度が高いわけではないが)一般的に知られ・歌われるようになったのは、1960年にこの曲が英訳されたジョーン・バエズのアルバムに収録されてからだという(そして、1960年代後半に日本で大ヒットした)。
ジョーン・バエズの歌を聴いていたその頃の、日本の私たちは一体どのようなことを感じながら、どんなことをしながら、この歌詞を聴いていたのだろう。前回、
その時代、あの時代、さまざまな時に流れ・歌われた曲を聴きながら、その時折を知る人たちの話を訊いててみたい、と思う。と書いたが、この曲に関しても、やはりそう思う。
私がこの歌詞を読んで、ふと思い出したのがサイモン&ガーファンクル が歌った「コンドルは飛んでいく」である。アンデスのフォルクローレの名曲に、ポール・サイモンが英語の歌詞をつけて、よく歌われるようになったあの「コンドルは飛んでいく」である。
地を這うカタツムリになるよりは、スズメになりたい。
もしなれるなら、心からそうなりたいと願う。
人は地面にしばりつけられ、この曲も同じ時代に歌われたからなのか、ポール・サイモンがやはり同じユダヤ系だからなのか、あるいは、単に悲しげなメロディとモチーフからに過ぎないのか、それとも普遍的な何かがこういった曲の底に流れているからなのか・・・理由はわからない。けれど、「ドナドナ」のメロディと(イディッシュ語版もしくは英語版)歌詞を眺めると、「コンドルは飛んでいく」を、私はふと連想してしまった。
一番悲しい声を響かせている。
「ドナドナ」は、日本の小学校で音楽教育を受けた人ならば、多くの人が知っていると思う。人は、たとえば、あなたは、一体「ドナドナ」を聴いて、どんな風景を思い浮かべるだろう。