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2006-03-04[n年前へ]

「株プチ・バブル」「ネットベンチャー」「米国の歴史」の繋がり 

asahi.com: 景気拡張、最長なるか GDP年率5.5%増 - 経済を読む - ビジネス 最近、雑誌や各種メディアで「(株取引などの)プチ・バブル記事」や「IT業界に関する記事」を見かけるたび、そこに米国指向(趣向と言い換えることもできるかもしれません)を感じ、少し「不思議な感じ」を受けることがありました。その「不思議な感じ」は、「何を私が不思議に感じているのかを、自分ですらよくわからない(何とも言葉にしがたい)疑問」です。あえて言うなら、「プチ・バブル記事」「IT業界に関する記事」「米国指向」がなぜ「似たようなもの」になるのかを少し不思議に感じた、という風だったかもしれません。

inside out 少し前、知人に勧められた「経済ってそういうことだったのか会議(佐藤雅彦・竹中平蔵 共著)」を読んでいて、少しだけその「不思議な感覚」が消えました。「株取引」や「ネットベンチャー」や「米国指向」が繋がる歴史的背景を、少しだけ納得できたという感じがしました。「経済ってそういうことだったのか会議」に出てくる一節から、なぜか「そんな繋がり」を納得してしまった、という具合です。その「実に個人的で感覚的な納得」を書いてみると、以下のようになります。

東証 : 世界で最初の株式会社 まず、私が、なるほど。確かにそうだなぁ」と思った一節や私が連想したことをいくつか短く並べてみると、例えば「米国はベンチャー(冒険・アドベンチャー)の結果としてできあがった国だ」「冒険者たちが株式会社を生み出した」「イギリス人のアメリカへの初渡航は、株式会社の誕生とほぼ同時だ」「19世紀終わりまで続く"開拓"がフロンティア精神(重視)を育てた」という感じです。冒険(=ベンチャー・アドベンチャー)の結果として、(西洋からすれば)未知の大陸が発見された、ということ、それは「米国という場所」の誕生以前の背景としてベンチャー気質に溢れていることを納得させます。そして、そんな海を渡って探検や航海や商売を行っていた人々が、そんなベンチャーの資金を得るために、「株式」会社を生み出したこと(1602年にオランダの東インド会社が世界で初めて「株」を発行した)は、昨今のITベンチャーの行いそのものです。そして、その世界初の「株式会社」が生まれた4年後にGreetings! from Washington D.C. - 誰でもわかるアメリカの歴史最初のイギリス人がアメリカにわたり、それが今の米国へと繋がっていくことは、「株」というものと「米国」の不思議な繋がりを感じさせます。アメリカへ英国人が入植する以前に「株式会社」という経済システムはすでに生まれていて、「米国人」は「株式会社を生み出した人たち」により生み出されて、株式会社の発明以降に生まれた「民族」だということを考えてみると、「米国人はそういうことに自由自在に慣れ親しむ文化を生み出すのだろうなぁ」と自然に納得できるわけです。

Greetings! from Washington D.C. - 誰でもわかるアメリカの歴史NASA Apollo 11 30th Anniversary さらに、ほんの一世紀前まで、米国では(他人のいない)開拓地(フロンティア)へ突き進む移住を続けていた、ということを考えるならば、そういう「民族・文化」であればいつの時代も未開拓地へと突き進むフロンティア精神の虜になるに違いないだろう、と感じざるをえません。そして、だから米国は月というフロンティアへアポロを飛ばし、宇宙の遙か先にあるフロンティアに(スタートレックの)エンタープライズ号を走らせ、そしてネットというフロンティアにも突き進んでいるのか、とふと納得したというわけです。

2007-11-23[n年前へ]

時代を眺めながら色の未来を考える 

 東京理科大学の宮原教授の講演の面白かった2つめのこと、実際には講演の主たる内容は、「光」と「色」を「産業や芸術や科学といった時代」の変化を辿りながら考える、というものだった。期せずして趣向が重なった「絵画の歴史を辿りながら、光と色を考える」というポスターセッションの研究報告と共に眺めることができたので、心から楽しめた。

 この十数年、画像形成技術は進化し続けています。
しかし、歴史の中で十数年はほんの一瞬です。

 講演終了後に話し合った「ニュートンとホイヘンスの論争をどう思うか」「宗教革命や産業革命そして東インド会社という時代からの必然」「シュンペータとイノベーション」といった話が、また面白かった。そういった内容については、画像関連の場所で、近いうちに、まとめて提供する機会を作りたいと思う。

 千年近い歴史を、3分ほどで辿りました。
こういった話題を材料に、たくさんの方々と
お話できることを願っています。

2007-12-02[n年前へ]

「フェルメール・ブルー」と「有田焼」と「ガリバー旅行記」 

 フェルメールと言えば、「青」だ。「青いターバンの少女」をはじめ、高価なラピスラズリを顔料に用いて描いたウルトラマリンブルーの色調は、フェルメールの看板色となっている。

 フェルメールの時代、彼が過ごしたオランダの街デルフトは、「デルフト焼」と呼ばれる陶磁器を世界中へ届ける街だった。デルフト焼は、美しい青で知られた「デルフトブルー」という代名詞で知られている。このデルフトブルーの原点は、日本の有田焼だった。日本の有田で作られた有田焼が(ヨーロッパで伊万里焼と呼ばれたものの多くは実は有田焼である)、世界初の株式会社と言われる連合オランダ東インド会社を通じてオランダに運ばれ、デルフトの陶工たちが、有田焼を参考にして「デルフトブルー」を作り続けた。そんな街で、フェルメールは毎日の景色を眺め続けた。

 フェルメールは1632年に生まれ、連合オランダ東インド会社は1602年に設立された。そして、オランダ人が始めて日本にやってきたのは、1600年である。この年4月、大分にオランダ船リーフデ(英語の"LOVE")号が漂着したのが、日本とオランダのファースト・インパクトである。そして、そのオランダ船の航海長だったのがウィリアム・アダムス、後の三浦按針だ。

ウィリアム・アダムス=三浦按針といえば、ガリバー旅行記のガリバーのモデルとして知られている。ガリバーは第三篇で、空飛ぶラピュタ島などを経た後に日本へ行き、長崎から日本を離れイギリスへ帰国したが、そのモデル三浦按針は、望み叶わず、祖国へ戻ることなく1620年長崎の平戸で亡くなった。それが、フェルメールが生まれる12年前である。

 日本からガリバーなどの手を経て、オランダへ渡った有田焼はデルフト焼のデルフトブルーを産む。フェルメールがラピスラズリでフェルメール・ブルーの色を調合しようとする頃、デルフトはデルフトブルーの青い色でで溢れている。歴史の流れも、何だかとても面白い。

ガリバー旅行記フェルメール有田焼デルフト市The Girl With The Pearl Earring






2007-12-11[n年前へ]

豚もおだてりゃ木に登る 

 東インド会社で働いていたジョン・スチュアート・ミル、経済学者として知られているミルの言葉で有名なものが、「満足した豚であるよりは、満足しない人間である方がよい。満足した愚か者であるよりは、満足しないソクラテスである方がよい(「功利主義」)」という言葉だ。

 この言葉は、「太った豚より痩せたソクラテスになれ 」というフレイズとなり、東京大学の卒業式で大河内総長が発した言葉として、しかし実際には語られなかった言葉として知られている。

 この言葉を見た時に思い出したのは、サイモン&ガーファンクルが歌っていた「コンドルは飛んでいく」だ。「カタツムリよりスズメの方がいい」「もしできるなら 、もちろんスズメになりたい」と歌い始められる「コンドルは飛んでいく」だ。こういった「○○よりは、××な方がいい」という希望の比較には、色んなバリエーションがありそうだ。

A man gets tied up to the ground,
He gives the world its saddest sound.

人は大地に縛られて、
世界で一番悲しい音を奏でる。

I'd rather feel the earth beneath my feet,
Yes, I would, If I only could, I surely would.

足の下に大地を感じていたい。 できるなら、足の下に大地を感じていたい。

 よく何かを作ろうとする時に、こう思う。世の中には最初から「完成形」をイメージできる人もいる。その一方で、「完成形」はイメージできないけれど、「比較をし続け、いいと思うイメージを選び続けることで、完成形を作る」ことができる人もいる。

 「完成」に近いのは、実は「最初から完成形をイメージすることはできないけれど、比較・推敲を続けることができる人」なのではないだろうか。「満足したソクラテス」よりも、「満足しない豚・満足しない人間」の方が、実は何かを完成させることができるのではないだろうか。

ジョン・スチュアート・ミル豚とソクラテス








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