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2009-02-24[n年前へ]

矮小化されない複雑な世界 

 森達也の 「視点をずらす思考術」より

 事件や現象はそんな一面的なものじゃない。もっと多面的なはずだ。…そしてその帰結として、事象や現象はかぎりなく単純化される。
 こうして、世界はメディアによって矮小化される。そしてこの矮小化された単純簡略な情報に慣れてしまった人たちは、複雑な論理を嫌うようになる。つまり胃袋が小さくなる。輪とはもう悪循環。わかりやすさを好む視聴者や読者によって、メディアは事件や現象の単純かを当たり前のようにこなし始め、そのスパイラルが加速する。

p.137 「人間が宗教を必要とする理由」

2009-03-22[n年前へ]

デジタルがアナログに追いつく日 

 こう言うと「冗談」だと思われることも多いのですが、私はコンピュータを扱うのが本当に苦手です。何か資料を作るときは、ハサミと糊でマニュアリー(手作業)でコピー・ペーストをしながら、仕上げることが多いくらいです。

 先日書いた「論理的にプレゼンする技術 」の特長はとてもイラストが使われていることです。そのイラスト・イメージは、駅中の喫茶店で、いつも持ち歩いている小さなホワイトボードに絵を描きながら「イメージ」を編集者に伝えました。「こういうことを伝えたい」という絵をホワイトボードに描き、そして、それをケータイで撮影して記録していくのです。

 そんな携帯用ホワイトボードに描いた、ラクガキの例が下の画像です(あるいは、さらにその下に小さく張り付けたような「まとめ」用イラスト例になります)。本書のページを本屋で手にとって、一枚一枚めくってみれば、こんな稚拙なラクガキを元に綺麗に・わかりやすく描き直されたイラストを、必ずどこかに見つけることができるはずです。

 ところで、手書きで「言いたいこと」を描くよりも、コンピュータを使って資料を作る方がずっと時間がかかるように思います。しかも、プレゼンテーション・ソフトウェアで図を作ったりした日には、「考えていること・言いたいこと」がメリハリがつかなくなり、わかりにくい資料になってしまうことが多いようにすら思うのです。不思議なような気もしますが、そう私は感じています。

 デジタルがアナログに追いつく日は、まだまだ来ないのではないでしょうか。それは、単に「私が追い付いていない」だけなのかもしれません。けれど、やはり、デジタルがアナログに追いつく日は、まだまだ来ないのではないか、と思うのです。

イラストイラストフローフロー






2009-12-21[n年前へ]

僕らが見たつもりになっている世界 

 森達也の(小中高生に向けて書いた)「世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー (よりみちパン!セ) 」から。

 つまり物事は、どこから見るかで全然違う。なぜなら世の中の現象はすべて、多面的だからだ。
 わかりやすさは大切だ。学校の授業だって、わかりづらいよりはわかりやすい方が良いに決まっている。でもね、ここで大切なことは、僕たちが生きている今のこの世界は、そもそもとても複雑で、わかりづらいということだ。
 何かを撮るという行為は、何かを隠す行為と同じことなのだ。
 もう一度書くよ。僕たちはメディアから情報を受け取る。そして世界観を作る。でもそのメディアの情報に、大きな影響力を与えているのも僕たちだ。メディアが何でもかんでも四捨五入してしまうのも、その四捨五入がときには歪むのも、実際の物事を誇張するのも、ときには隠してしまうのも、僕たち一人一人の無意識な欲望や、すっきりしたいという衝動や、誰かわかりやすい答えを教えてくれという願望に、メディアが忠実に応えようとした結果なのだ。

 学生時代、写真館でアルバイトをしていた。結婚式の写真を1,2mmトリミング(切り取る)するだけで、ずいぶん違う写真に変わることに驚かされた。たった2人しか写っていない写真でさえそうならば、たくさんの人たちがいる世界を写したはずのものは、ほんの少しのトリミング次第で、どれほどに大きく変わってしまうものなのだろうか?

2009-12-23[n年前へ]

メディアの形態 

 永江朗「メディア異人列伝 」から。

 日本の新聞には「なぜ」がなく、あるのは事実の羅列だけ。一つの記事が短く、長い記事は共同執筆になってしまう。
 「メディアが突出して悪いわけじゃない。メディアは鏡みたいなもの。僕らが望むからテレビや雑誌はこういう形態になっている。」

2009-12-26[n年前へ]

「テレビニュース」=「私たち自身」 

 ふと、今日は、以前書いた文章を見直し、清書してみることにしました。

 私は新聞記者が「起きた出来事を一人でも多くの人に一秒でも速く届けるという役割」を重視する姿勢はあまり価値があるとは思っていません。「起きた出来事」を明らかにするには時間がかかる以上、「起きた(と思われるが、その確からしさは決して高くない)ことを多くの人に速く届けてしまうという自らの判断」の必要性・危険性を「その書き手」はいつも疑い・考え続けるべきだと思います。そして、その必要性・危険性を考え続けながら、それでも、長い時間をかけて事実を明らかにしていく、というやり方が大事だと思っています。どれだけ、長い時間をかけても、です。

 新聞記者たちが、そんな期待に応えてくれているかどうかどうかは疑問に思っています。少なくとも、長い時間をかけてみても、コストパフォーマンスが低ければ、仕事にはならないからです。

 とりあえず、私たちの中にある(少なくとも私の中にある)刹那的な野次馬根性に対して、記者たちは私たちの野次馬根性・期待に対して100%以上の仕事をしていると思っています。

 さて、次は新聞ではなく、テレビの話です。ただ、基本的には多少の差はあれど、とても似ている話です。

 以前、「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?というアンケート結果を流すTVを見ました。その時、「テレビニュース」というものに対する(私たちの)イメージは、すべて自分たちの上に降りかかってくるに違いない、と確信しました。私たちのイメージの中にある「テレビニュース」という言葉はすべて「ぼくら自身」と全て置き換えられるに違いない、と思いながら「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?というアンケートへの答えが、刻々とTV画面に流れるようすを知人宅で眺めました。

「テレビニュース」が世の中に与える影響は? -> 悪い
「テレビニュース」は信用できる -> No
「テレビニュース」はあなたの人生にとって
  なくてはならないものですか? -> Yes

 最後の質問まで眺め終わったとき、「テレビニュース」という言葉は、すべて「私たち自身」という言葉で全て置き換えられる、と確かに判断したのです。



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