2009-09-22[n年前へ]
■伝達できない技能は技能でない
関川夏央「おじさんはなぜ時代小説が好きか (ことばのために) 」の司馬遼太郎に関する章から。
『真説宮本武蔵』で彼は、伝達できない技能は技能でないと強調し続けます。(中略)つまり、教育できないものは文化ではない、一瞬の芸にすぎない、という考えが彼の中には濃厚にありました。反吉川『武蔵』ですね。
2010-02-13[n年前へ]
■フィギアスケートの「芸術点」と「プレゼンテーション」と「定量化」
昔、フィギアスケート競技を観ていると、「技術点」と「芸術点」というふたつの言葉を解説者が語るのをよく聞いた気がする。どの程度の難易度の技を、どのように行っていったかを評価する技術点というのは、まだわかりやすいような気がしたけれども、「芸術点」というものは何だか少しわかりづらく感じて苦手だった。
その「芸術点」=Artistic Impression はいつの間にか、プレゼンテーション・スコア=Ppresentation Score と名前を変え、さらには構成点=Program Component Scoreというように名称が変わっていた。「芸術点」が「プレゼンテーション・スコア」そして「構成点」と名前を変えれば、かつて感じた「わかりづらさ」「基準のなさ」が消えるかと思いきや、むしろ、「技術点」とどのように違うのかがわかりづらいものに思え、何だかつまらなくなってしまったような気がする。
「芸術点」という基準のわかりづらい曖昧模糊とした点数が、どのように、どれだけ、聴衆に何かを伝えるかという「点数」を体現する言葉に変わり、そして、「構成」="Components"というさらに具体的で基準がはっきりとしているように見える「点数」で争われるようになっている。
しかし、曖昧で、あやふやな Artistic Impression という言葉の方が、Program Component Score という言葉よりも、心を動かされる度合いを的確に現わしている言葉のような気がする。
一見すると確かなものに感じられる数値の方が実はとても曖昧であやふやなもので、曖昧に見えるものの方が本当はとても確実なものだということは、よくあることではないかと思う。
"I want to be with you the rest of my life. Will you marry me?"下に張り付けた動画の中では、"Score"とか"Presentation"とか、さまざまな言葉が出てくる。その言葉、ひとつひとつを聞きつつ、その言葉を発した解説者と同じように心動かされる。
"Yes."
Announcement: "Obviously, she said, yes."
2010-02-22[n年前へ]
■文章の目的と、その手段・方法について
「 文章というものについて知りたいのであれば、この一冊を読むべしという、丸谷才一の「文章読本 (中公文庫) 」中で書かれている文章から。
文章というものは、判断や意見を相手に伝え(伝達)、あわよくばそれを信じさせるために書かれる。
「論理的」ということでなく、人への「伝達」、人との「コミュニケーション」ということを(プレゼン資料を添削する作業を繰り返すことを通して)考えて、そして気付いたことを書いた「論理的にプレゼンする技術 聴き手の記憶に残る話し方の極意 (サイエンス・アイ新書)」の3刷目が近々出ます。
「基本ができる」ことは「応用することもできる」という言葉、基本ができれば何でもできる、逆にいえば基本ができる人は実は少ないという言葉を眺めたとき、そんな内容に納得することも・違和感を持つこともあるかもしれません。そのどちらにしても、少しばかりの時間を費やし、ご一読して頂ければ幸いです。
2010-02-24[n年前へ]
■評論・エッセイが届くのは「賢い人」(だけ)ではないのか?
鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」No.658 「物語という手段でしか届かないもの」から。
たぶん、評論やエッセイで届けることができるのは、じつは、「賢い人」なんじゃないかと思っているのです。
もっとガンコでもっと臆病でもっと弱くてもっと真剣でもっと壊れやすい人に届けるためには、物語という手段をちゃんと考えないといけないんじゃないか、と思いだしているのです。
この記事原文では、「賢い人」には括弧がついていません。つまり、賢い人と書かれています。しかし、あえて、上の文章では括弧を付けました。
そう改変した理由は、そうした方がより現実に近く・より普遍性を持つのではないだろうか、と私はそのように思うからです。そう思うので、括弧(カッコ)を上記文章に付加してみました。
2010-11-11[n年前へ]
■「ひとりよがりの書法をとらないでもらいたい」
岩城 宏之 「楽譜の風景 (岩波新書) 」から。
演奏者という人間を媒体とした曲を書く以上、ひとりよがりの書法をとらないでもらいたい。うまく演奏家という動物を使うべきである。自分の表現したいことを、能率良く、無駄なく演奏家に伝える方法を常に考えてほしい。見やすい、わかりやすい方法で書いた方が自分のために得なのだ。
ほとんどすべての場合、ありとあらゆるコード記法、ありとあらゆる記述法に、このアドバイスは当てはまるのだろうか、と思ったりするのです。