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2004-08-08[n年前へ]

漱石が牛耳る・野次るを一般的にした 

 漱石が牛耳る・野次るを一般的にした

牛耳を執る」が動詞化して「牛耳る」となったのですが、この言葉を最初に文章に用いたのは夏目漱石だったようです。 漱石はこんな言葉を使うのが好きだったようで、「野次る」も漱石がはじめに文章に取り入れた言葉として知られています。

2004-09-04[n年前へ]

大阪市立科学館 

 京都にいた頃、一回だけ大阪市立科学館に行ったことがある。今日はその大阪市立科学館友の会の会報誌用の文章を書いている。少し不思議な気分だ。

2004-09-05[n年前へ]

Google Talk 

 いくつかの単語を入力すると、その単語をGoogleで検索した結果から単語を適当に抽出し、さらに検索をしてその結果から…、という具合に単語を並べて文章をタイプしていくGoogle Talk。タイプされていく文章を眺めているだけでも面白い。 from BLOG KID

2004-10-31[n年前へ]

B級タレントが身近にいたら 

ジェネジャン : NDO::Weblog 昨夜、つけっぱなしにしていたテレビ画面の中に、ふと気づくと近藤@はてなさんの顔が写ってる。「新階級社会」というテーマのもとに、「社長VSフリーター」でディスカッションが行われていた。

 その番組ことを書いた文章を読むと

近藤さんも撮影から帰ってきた翌日、ふかわりょうをしきりに褒めていた
四元奈生美 official websiteと書いてある。

 この文章を読んで思い出したのが週刊SPAに掲載されていた中国プロ卓球リーグに挑戦中の四元奈生美のインタビュー。彼女がプロになったきっかけが紳助・竜介の(卓球もすごく上手いという)松本竜介だという。
(松本竜介さんは)世間的なイメージはどうかわからないけど、あの人すごい人ですよ。いろいろ面白い発想力を持っているし、話もためになる話ばっかり。「(結局、最後は)自分がどうするかなんだぞ」っていうのを常に言われたんです。自分がどうするか決めた一球っていうのは、誰にも文句を言われる筋合いはないって、そういう話ばっかりするんですよ。「エッジな人々」 四元奈生美 取材/古沢 保
はてなダイアリー - jkondoの日記 個人的には(あの番組の中での)「金持ち経営者 vs フリーター」という両者が大きく違うものには見えなかった。両極端の二者というよりは、似たもの同士の中の「(現在時点での)勝ち組」「(現在時点での)負け組」に思えたりする瞬間もしばしばあったように思う。もちろん、その力強さは違うにしても。
 「雇う人」でも「雇われていない人」でもない、「雇われていることを選択している人たち」の意見を知りたいかな。あと、B級タレントと言われている人の話を聞いてみたいかも。テレビを通してではなく、直接に。

2005-01-04[n年前へ]

「津波と人間」 

 新聞やテレビといった報道機関、あるいは、ネット上のさまざまなサイトでスマトラ沖地震に関する話をみる。「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ」というような言葉をよく見かける。来月の今頃は、そんな言葉をどのくらい見ることができるのだろうか。来年ならば、どうだろうか。再来年ならば、どうだろう。

「科学と科学者のはなし」 1933年3月3日、三陸沖地震が起きた。3千人の命が消えたこの地震・津波の直後に寺田寅彦が雑誌に発表した文章が「津波と人間」だ。この文章中で、寺田寅彦は「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ、という論」を挙げた上で、「しかし、年月を経るうちに人はその災害を忘れ、世代も移り変わり、その教訓は容易には生かされないだろう」と書く。つまり、「地震・津波が次にやってくる時には、人は前回の教訓をすでに忘れている、だからこそ災害が繰り返し起きるのだろう」と書く。その寺田寅彦が繰り返し唱えた思想を、一言で言えば、「天災は忘れた頃に来る(天災は忘れた頃にやってくる)」ということになるのだろう。

 「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ」というようなことは遙か昔から(寺田寅彦でさえ70年以上前だ)、何度も繰り返し言われたことだと思う。何度も繰り返し言われても、それは人はいつも忘れ続けるのかもしれない、と思う。「天災は忘れた頃に来る」という言葉、言い換えれば、「忘れなければ、天災は来ない」という言葉、は何度も繰り返し口に出されるべきだろうと思う。忘れさえしなければ、天災は来ないのだ。

 しかし、その一方で「忘れる」ということは人にとって自然で、何かしら生きて発展していくための原動力であるだろうとも思う。数ヶ月先、あるいは例えば来年に、地震や津波のことなんて忘れ去られ、今回の被害地が同じように人で賑わっているとしたら、それもまたとても自然なのだろうと思う。人が忘れることが「自然」であるならば、人が忘れることにより生じる災害はやはり「人災」でなく「天災」なのかもしれない。だから、「天災は忘れた頃にやって来る」のだ。




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