hirax.net::Keywords::「種ともこ」のブログ



2010-06-23[n年前へ]

「うれしいひとこと」 

 ある春の終わりに、京都府にある長岡京市にある市民会館にベートーベンの第九を歌いに行った。その時は、それから何年物間ドイツ語に苦労することになるとは知らずに、気持ち良くステージの上で歌を歌っていた。

 数か月して、寒い季節に、毎日のように、純肉体労働的アルバイトをするために、その市民会館の先にある埋蔵文化財発掘センターに通い詰めた。その頃、いつもい聴いていた(やはり長岡京出身の)種ともが作り・歌っていた「うれしいひとこと」から。

「うれしいひとこと」






2010-09-01[n年前へ]

人生のページは実はわりといつも「どこでもドア」で 

 tomokotaneblog 「夏休み自動延長」 から。

人生のページって、
実はわりといつもどこでもドアで、
願えば、必ずとは言えないけど、
(どこでも)連れてってくれる。

種ともこ

 さて、この記事の「関連お勧め記事」には一体どんな記事が並ぶだろう。

2010-12-20[n年前へ]

雲がゆっくり動いてゆく。 

 種ともこ「雲に映る歌」から。

雲がゆっくり動いてゆく。
ぼくも ゆっくり歩いて行こう。
星がゆっくり瞬(またた)きだす。
ぼくも もすこし眺めていよう。

2011-08-06[n年前へ]

「地デジ化で消えた時報」と「3分10円の公衆電話」 

 TVのアナログ放送が終了し地デジに移行するとともに、TV放送からピッ・ピッ・ピッ・ポーンという時報も消えていきました(参考:携帯電話の同時性?::(2000.02.19))。デジタル放送になると…映りが悪いということが無くなって…ゼロかイチかで映るか・映らないのどちらかになってしまったり、チャンネルを変えても画面が映り・音声が再生されるまでに時間がかかったりします。だから、「時報」の意味がなくなって、TVの画面から「時報」の時計が消えました。

 時刻を電波で受信して自動的に時間を合わせ続ける時計が使われるようになったり、あるいは、ネットワーク経由で時刻を修正するということが普通に行われる時代になりました。そして、それとともに「時報」のように身の回りから消えていくものが多くあります。技術革新が進むと、かつてあったはずの「生活必需品」のことを、私たちは忘れていきます。

 1986年…今から25年前=四半世紀前の、種ともこの(小刻みに転調が繰り返されるのが印象的な)「10円でゴメンねHOT CHOCOLATE MIX はこちら)」を聴いていると、こんな歌詞が出てきます。

十円でゴメンね。言葉が出てこない。
ピンチのウルトラマンみたいさ。
制限時間、3ミニッツ。
 もしかしたら、いえ、もしかしなくても、もう解説無しでは…意味不明なのかもしれません。

 昔は、街の中には公衆電話があって、家以外からは公衆電話でしか電話を掛けることができなくて、電話の”親機”とか”子機”なんていうものは一般的ではなくて(「電話の歴史」のその3あたりです)、だから、好きな人の”家”に(他の人に聞かれずに)電話を掛けようとするなら、まずは公衆電話という時代でした。十円玉を入れ、市内電話なら3分まで話すことができる…というわけです。だから、地球上では3分までしか活動できないウルトラマンと同じ「制限時間、3ミニッツ」と歌い上げられているのです。もちろん、十円玉を投入し続ければいくらでも電話できるわけですが(相手に電話を切られない限りは)、3分10円、30分で100円、1時間で200円…ということは、1日話すと24時間で4800円というわけで、いつまでも(電話で)話すことができるわけではないのです。…当時は、なかなか「定額制」のラブコールができる時代ではなかった、というわけです。

 しかし、よくよく考えてみれば、直接会いながら話すのでなく、公衆電話から話すシチュエーションというのは、そもそも、あまり「芳(かんば)しい」状況ではないわけで、それはまさにピンチのウルトラマンでもあるし…もしかしたら、ウルトラマンというより(歓迎されないにも関わらず)地球にやってきた怪獣のような状況だったりしたように思われます。…つまりは、ウルトラマンに3分10円ナリの短い時間に「倒される運命の(歓迎されざる)怪獣」というわけです。

 地デジとともにTV画面から時報が消えました。そんなことを考えながら、TV画面の中で地球上から毎週のように消えていた「(3分10円の公衆電話で戦う)ガオーと叫びつつ倒される怪獣」を思い起こしました。技術革新とともに、かつての生活を、私たちは忘れていきます。…たまには、忘れかけていた「昔の生活」を、ふと想い出してみたくなりもします。

2011-08-25[n年前へ]

繋がる「点」が描きだす世界 

 「点と点とナード」から。リンク先や、関連して連想したことを並べてみました。そしてまた、”この記事の「関連お勧め記事」”あたりも眺めてみると・・・面白いかもしれません。

 …世間的な常識や評価、あるいは自分の将来の得失とかを考えると、どうもこういうことをやってて良いのか不安になるんだけれど、でもどうしても今これをやらずにはおれないんだ、という人に対して、「今それをやっておくことは将来必ず何かにつながるから、心配せずに好きなだけ入れ込みなさい」と…

点と点とナード
 俺達は今ある選択肢の中で、冷静に、自分にとって一番良いものを選ばなければならない。どんな選択肢を選んでも、点と点がつながる可能性は捨てなくていいのだから。

点と点がつながると信じてたバカへ。
 同じように、どの選択肢を選ぶかよりも、選んだことをどれだけ上手く実行するかが重要なのだ。宝くじ(”当たりくじ”)は、どんな道を歩んでも買うことになる。(どんな選択肢も結果的には”当たりくじ”であって、そこから価値を生み出すか否かは実行力が決めるのだから)

点と点がつながると信じてたバカへ。
 数字がバラバラに書いてあって、その数字を順番になぞっていくと最後に絵ができる"Connecting The Dots"ってパズルがあるじゃない? バラバラだったりしても、途中で間違っているように思えたりしても、色々と続けていたら最後に何か浮かび上がってきたりしたら、それで良かったりするのかな?って時々思ったりするの。

あしたのあたし
 これから、興味があること楽しいことが、たくさん見つかるのかもしれません。そんな「たくさんのもの」の中から、自分でどれを選んでいくんでしょうね?何が、「一番のお気に入り」になるんでしょうね?

 うーん、「一番のお気に入り」って何でしょう? 私は多分、ずっと、その場その場で気に入ることをするのかもしれません。そして、もしも飽きたら、新しいところに行きたがるんだろうなぁ、と思っています。 どうでしょ?

 私も「ずっと、その場その場で気に入ることをする」感じかもしれません。 自分が一番気に入ることを続けた結果、一番最後に浮かび上がってくるものは(今の自分自身には)まだよくわかりません。…けれど、もしかしたら、他の人から見れば、かすかに見えていたりするのかもしれません。

 「浮かび上がってくるもの」は、「他人から見た自分」のような感じがしますね。それは、もしかしたら、死ぬまで自分では見えないかもしれない。 けれど、でもその「浮かび上がってくるもの」が、どのような気持ちで描かれているかとか、どうやって描いたのかを知っているのは自分だけ。 それは、不便なような、だけど、面白いような。

「あなたが一番したいこと」
 星が散らばっている時、その星を結んだ瞬間が一番楽しい。

水道橋博士と河合隼雄が語る「星座」と"Connecting Dot"な「日々」
 この「星」というのは、誰かの「足跡」ということである。ただ眺めてみた時には、それらの足跡の集まりは 、何の姿も持たない「空に散らばっている星」にしか見えない。けれど、その人の足跡・星を結んでいくと、そこには、ただの点でも直線でもない「その人の姿」が浮かび上がってくる、ということだ。
 私たちは毎日走り続けている。時には、立ち止まったり、ゆっくり歩いてみたりしながら、流れる時の中で、何かの歩みを続けている。あるいは、好む好まざるに関わらず、移り流れゆく世界の中で、泳ぐことを続けている。その軌跡は、一体、どんな星座を描くのだろうか。

水道橋博士と河合隼雄が語る「星座」と"Connecting Dot"な「日々」



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