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2007-07-01[n年前へ]

旧約聖書と「あぼーん」 

 先日、「文学を科学する」という本を読んで、こんな一節に惹かれた。

 文章は書かれて発表されたとたんに、書き手の所有物ではなくなるのです。
(その一方)作者の手を放たれたテキストは読者の所有物になるのではありません。それは、…膨大な言葉同士の関係に入り込むのであって、つまり作者のものでも読者のものでもなくなるのです。

 作者のものなら作者の解釈だけが唯一の真実ですし、読者のものならどんな恣意的な解釈も可能です。しかし、それが作者のものでも読者のものでもないからこそ、文学作品は常に新しい読み方ができる、いいかえれば繰り返し読むことに耐えられるものになるのです。

 「文学を科学する」 P.65 - 66
 この一節を読みつつ、ふと、巨大掲示板 2ちゃんねる の「あぼーん」という言葉を思い出した。問題がある発言が書き込まれた時、書き込みの題・内容・日時などがすべて 「あぼーん」と書き換えられるシステム、その「あぼーん」の語源を考えた時に考えたことが蘇ってきた。
投稿者の力が及ばない権限者が行う削除行為から、2ちゃんねる外の自分の発言やアカウント、またクルマやパソコンなどの私有物への表現にも使われ、あらゆる事柄に存在する「破損」「消失」「死」についての婉曲表現として「オレのPCがあぼーんした」などと動詞的に使われるようになった。

  はてなダイアリー あぼーんとは

 あぼーんの語源を検索すると、"a bone" (骸)という説や、マンガ「稲中卓球部」のセリフという説など、さまざまな説が出てくる。もしかしたら、作り手"ひろゆき"が異なる語源を語ったのかもしれないし、あるいは、たくさんの読み手たちが新しい解釈を、いつの間にか作り出していったのかもしれない。そんなたくさんある"あぼーん"の解釈の小さなひとつ、私が考えた"あぼーん"の語源は、こんな話だ。
 いつだったか、旧約聖書の解説書を読んだ。そして、創世記 第四章 「カインとアベル」の中に出てくるカインの過失・罰を意味する言葉が、本来のヘブライ語の聖書では「アボーン」という言葉だったということを知った。兄カインが弟アベルを殺した罪、その罪が故に、安住の地エデンから「エデンの東」へ追放されたことなどを一語で表現しているのが、ヘブライ語の「アボーン」である。その言葉を見たとき、これはまるで2ちゃんねるの「あぼーん」のようだ、と感じた。問題のある発言を掲示板の外へと移動させる「あぼーん」と、ヘブライ語「アボーン」は、三千年も時を隔てているけれど、不思議なくらいよく似ている。

初めに言葉があった。
万物は言葉によって成った。
言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。

 新約聖書 ヨハネ福音書

 「文学を科学する」を読んだ頃、「インターネットのコメント・システム、異なる人たちが、時事についての意見を書き込むような場」から何が生み出されるのか、あるいは、どんな問題が起きてしまうのかを考える文章をよく見かけた。そういった文章を読みながら、同じ時期に旧約聖書と「あぼーん」について考えていたせいか、なぜだか思い出したのが、「全体は部分の総和以上のものであるか?」という、こんな文章である。

聖書は部分の総和以上のものであるか?
もちろん。
さまざまな物語や詩、それに異なるものの見方の混合が、個々の作者の夢にも思わなかったものを産み出した。

 「旧約聖書を推理する—本当は誰が書いたか
 R.E.フリードマン P.323

2008-01-05[n年前へ]

「タグ」に関するブログ 

 「油絵」のブログという感じで、タグ別のブログページを仕立てました。タグ一覧ページから、個別のタグを辿ると、それぞれのブログページへのリンクがあります。「Photoshop」のブログ「ミステリー」のブログ「夕暮れ」のブログ「半神」のブログ「答え」のブログなど、ひとつの言葉から生まれるたくさんのブログ群、です。

2008-01-20[n年前へ]

『「暮らしの手帖」の料理記事』の作り方 

 丸谷才一編集の「恋文から論文まで - 日本語で生きる・3 -」(福武書店)に収録されている文章と言えば、小榑雅章が書いた『「暮らしの手帖」の料理記事』も新鮮だった。

 暮らしの手帖の料理記事は、まず専門の料理人に実際に作ってもらう。その際、編集部員が傍らで材料や分量、調理の具合などを見聞きして、記事に仕立てる。つぎにその記事を手本にして別の記者が試作する。記事通りに出来るかどうかチェックするわけだ。
 編集長の花森安治の指揮のもとで、こうやって記事を作り上げ続けた結果、「暮らしの手帖の料理記事は、書いてあるとおりやると、ちゃんと出来る」という評価が定まった、という。

2008-01-30[n年前へ]

「ひかへん」v.s.「ひけへん」アンケート 

 「立ち切れ線香」の「三味線弾かしません」のニュアンスをどんな感じに聞くかを知りたくなって、アンケートをしてみた。聞いてみたのは大阪人1人と京都人2人、答えは少しづつ違うけれど、やっぱり、似たような結果でもあった。下に貼り付けたのが、その3人のアンケート結果だ。「ひけへん」は「不可能な事実(と表裏一体の残念さ)」で「ひかへん」は「意思と事実が混じり合ったようす」だ。

「わしの好きな唄、何で終いまで弾いてくれんのやろ?」
「もうなんぼ言うたかて、小糸、三味線弾かしません」

 こんなアンケート結果を目にすると、「立ち切れ線香」には「三味線弾かしません」こそがピタリとはまるように見えてくる。朱色と藍色が複雑に混じり合う夕暮れの空のように、事実と意思が複雑に混じりあった言葉で、緞帳が下ろされる方がふさわしいような気がしてくる。

たくさんの混じり合っているものを、味わいのもよい。

ひかへん」v.s.「ひけへん」ひかへん」v.s.「ひけへん」ひかへん」v.s.「ひけへん」






2008-04-10[n年前へ]

江國香織の「情緒」と「論理」 

 落語のことを江國滋が語る本を読みたい、と思っている。けれど、残念ながらまだ読むことができていない。けれど、いつか「落語手帖 」「落語美学 」「落語無学 」といった江國滋が落語について書いた本を読んでみたい、と思っている。

 江國滋の長女である江國香織(今では、江國滋が「江國香織のお父さん」と言われることの方が多くなってしまったくらいだ)が書く言葉は本当に素敵だ。情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。

 たとえば、この文章はどうだろう。

 なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉の一つ一つに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備わっている。双六風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

  たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像
 一片の隙間もないほどに、緻密に言葉が積み上げられているのに、江國香織が書き上げる文章は、奇麗なリズムで音が叩かれ・刻まれていく。数学的で、論理的で、必然性と因果性に満ちていて、そして丁寧で優しくみえる。

 子供がそのまま大人になったような人、という言いまわしがありますが、あれは変だと以前から思っていました。誰だってみんな子供がそのまま大人になるわけで、それはもう単純に事実だと思うからです。



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