2010-01-31[n年前へ]
■自分で考えない力
小笠原喜康「新版 大学生のためのレポート・論文術 (講談社現代新書)」から。
日本は明治以来、近代教育と言う国民皆教育の時代に入った。(中略) この目的のために重要な学力は、「時間を守る道徳」と「自分で考えない力」の二つである。
戦後は、近代教育が社会に合わなくなってきた。学校は、70年代以降は急速にその力を失ってしまった。つまり時代に合わなくなっていった。「オイッチニー、オイッチニー」が通用するのは、古いタイプの大量生産工場に過ぎない。
本書は、こんな日本の教育を受けてきた若者たちへのささやかなエールである。
2010-02-07[n年前へ]
■「書くことだけがお前を助ける」
「忘れられない、あのひと言 」に収録されている、船曳建夫の文章から。
そんな頃、その日も思うように書けず、昼飯時にとぼとぼ歩いていると、反対側の歩道を行くフォーティス先生を見かけた。先生はこちらを認めると、突然、道を横切り、私の前に来た。そして、日本語に直訳すると、「書くことだけがお前を助ける」と私に言い渡し、去って行った。この一言は私に響いた。
この言葉は博士論文を書いている若者だけではなく、多くの人に励ましの言葉となると考え、ここに再び載せる。
2010-02-08[n年前へ]
■「デーモン」(魔人)という、人間を創造的活動に駆り立てる根源的な焦燥
小山慶太「科学者はなぜ一番のりをめざすか―情熱、栄誉、失意の人間ドラマ (ブルーバックス) 」から。
ドイツの作家シュテファン・ツヴァイクは、人間を創造的活動に駆り立てる根源的な焦燥(しょうそう)を「デーモン」(魔人)と呼んだが、その言葉を借りれば、彼らはまさにデーモンにとりつかれた人間ということになるのかもしれない。そして、片時も立ち止まることなく、まるで立ち止まることが恐怖であるかのように論文を発表し続ける衝動もまた、先取権獲得にかける執念の強いあらわれなのであろう。
2010-02-23[n年前へ]
■「学術論文」と「特許」の間に流れる深くて暗い河 (初出:2006年04月30日)
「 神戸大教授、実験データを捏造 特許出願取り下げ 」「 実験データ捏造、過去の論文も調査へ 神戸大が記者会見 」という朝日新聞の記事を読みました。「特許の出願書類に、実際は実験していないデータを記載していた」ということが記事になっているものです。
関連ニュースを読みながら、「深くて暗い河」を感じました。特許に長く関わったことがある人たちと、そうでない人たちとの間に流れる「深くて暗い河」です。
前者の「特許に長く関わっている人たち」としては、たとえば、企業の中で特許を書いたりする技術者たちや知的財産関連業務の方々、あるいは、特許事務所の弁理士の方々、はたまた、特許庁の方々などです。そして、後者の人たちは、「学術論文」と「特許」を同列に扱っているような記事を書いた新聞記者の方などです。
日本特許取得企業ランキングや米国特許取得企業ランキングを見ると、多くの企業がそれぞれ多くの特許を取得しています。ここに挙げられているのは「登録された特許」なので*1、この影にはさらに膨大な「登録されていない出願特許」があるわけです。登録されていない出願特許は「特許庁に認められなかった」というものもありますが、企業(出願者)側が「特許庁に特許をチェックしてくださいね、という依頼(=審査請求)をしていない、というものもあります。つまり、(現時点では)特許を出願して一般に公開しただけ、というものもあります。これら膨大な特許申請はおそらく特許書きノルマのせいでしょう。
実際、特許庁の方の報告会中で、会社ごとの社員数を横軸にとり、縦軸に(各会社の1年あたり)特許申請数をとった散布図を眺めたことがあります。その散布図グラフは、見事なほどに一本の直線状に乗っていたのです。そして、その傾きはほぼ3程度でした。
つまり、その関係を式にするとこういう具合です。
特許申請数=3×社員数この比例定数「3」は、あくまで「予想」ですが、間違いなく、1年辺りの「特許書きノルマ件数」(より実際にはきっと少し小さな値)に違いありません。それが、とても単純に現象を説明できる「自然な考え方」だと思います。
こうした膨大な特許申請が、きちんと検証された後に書かれたものだと信じている人はおそらくいないと思います。少なくとも、特許を毎年量産し続ける人たちなら、「特許中のデータがすべて検証されている」なんていうことを信じているような人はほとんどいない」と言って良いと思います。
「学術論文」と「特許」は少なくとも現状は全く違う、のです。
今回の一連の記事・対応からは、そういった「特許と学術論文は少なくとも現状は全く違う質のものとなっている」という背景がまったく見えてきません。
そろそろ、そうした「特許という世界の背景」や「特許と学術論文の違い」といったことについて、きちんと解説した記事が出てきても良い頃ではないでしょうか。*1 ちなみに、特許が仮に登録されたとしても、その特許が「万能の剣」になるわけでもありません。その登録特許に文句がある人や企業が、「おいおい、この特許は○×の理由でダメじゃないの?」と特許をツブす無効審判をかけてくることだって普通によくあることです。特許は申請すればそのまま有効になるわけでもなければ、登録されれば絶対的なものになるわけでもない、ということも「知っている人には当たり前」の話ですが、知らない人だと意外に感じることもあるかもしれません。
2010-03-28[n年前へ]
■「文書を作ることができない症候群」 (初出:2006年09月15日)
奥村先生のブログで「少なくともこのページは読むべき」と紹介されていた「Ask E.T.: PowerPoint Does Rocket Science--and Better Techniques for Technical Reports」という記事を読みました。
スペースシャトル・コロンビア号は、打ち上げ時に剥落した液体燃料タンクの断熱材により翼部分が破損したために、帰還中に空中分解してしまいました。この「PowerPoint Does Rocket Science--and Better Techniques for Technical Reports」という記事では、(断熱材による破損の危険性を評価した)ボーイング社の報告書から正当な判断がされなかった理由として、報告書がPower Point のプレゼンテーション・スライドの形式で作られていたことを指摘しています。Power Point のプレゼンテーション・スライドの中で、たとえば、重要な情報が箇条書きの中に埋もれてしまったり…、といったことが遠因となり、断熱材剥落の影響が軽視されることにつながった、というようなことです。
そして、そのような「 Power Point の弊害」を避けるためには、文書スタイルをNature や Science に掲載される論文のようなものとし、そして、Power Point でなく Word などを使って書くべき、というわけです。
その指摘・解説を読み進めながら、「なるほど。勉強になるなぁ」と思いつつ、「判断を要求されることが多い日常業務中、判断材料をNature や Science に掲載される論文のような文書として渡されても困るよなぁ…」とも感じました。そして、さらに「ここで指摘されている問題より、もっと大きな問題が、実は他にあるのではないか」とも感じたのです。
その「問題」をひとことで書いてしまえば、「プレゼン・スタイルや論文スタイル…どんな種類の文書であれ、適切な情報を適切な順序・量・構成で文章にできる人なんて非常に少ないのではないか」ということです。「Nature や Science に掲載され論文のような文書」を書けるような人はほとんどいないように思います。あるいは、そういった文章を書くことができる人がいたとしても、その文章の内容(形式ではありません)がそれほど新しいものでなかったり(つまり、単に以前書いた文書の焼き直しだったり)するのではないか、とも思うのです。フォーマット・道具の違いを気にする以前の、実に低レベルな悩みを抱えている段階だったりするように思ったのです。
というわけで、Edward Tufte の周りはいざしらず、道具の違いを気にする以前に、「論理的に話を組み立て、適度な量・構成としてまとめる」ことをまずできるようになりたい!と切望している今日この頃なのです。