hirax.net::Keywords::「努力」のブログ



2010-04-18[n年前へ]

「努力が必要です」くらいのノウハウ 

 森博嗣の「自由をつくる自在に生きる (集英社新書) 」から。

 この頃、書店に行くと、ビジネス書というのか、ジャンルの呼び方を僕はよく知らないのだけれど、どう生き抜くか、仕事をどう展開するのか、あるいは、発想や思考、判断のし方から、人間関係の築き方などなど、あらゆるノウハウに関する本が並んでいる。
 はっきりしていることは、あらゆる人や場合に共通するような成功の秘訣、といったものは具体的には存在しないという点である。
 抽象的になら、ある程度は共通事項を引き出せるだろう。たとえば、「努力が必要です」くらいのノウハウである。

2010-08-08[n年前へ]

好きこそ、ものの上手なれ 

 「爆烈ベーシスト列伝

 ポール自身、「ベース&ヴォーカルというスタイルをとるミュージシャンの中で、世界一、ぼくは練習している」と言い切っている。

2010-08-10[n年前へ]

「自分」の「長所」と「短所」 

 塩野入忠雄 「昭和の流痕-信州の一教師の哀歓-」 から。

 「自分を実際と違うように見せかけようとする時ほど、人間がこっけいに見えることはない」という言葉がある。外見だけを美しく見せかけようとする努力や、虎の威を借りた狐のように背後の力を借りて威張ってみたり、虚栄や虚勢は、ただ自分を粗末にする何ものでもない。
 誰にも長所がある。誰にも短所がある。(中略)数学ができる人、美術や音楽が好きな人、あるいはスポーツに秀でた人、誰よりも努力をおそれない人、みなそれはその人の長所である。お互いその長所を大事にしようではないか。
 しかし、いたずらに君自身の長所の喜びにおぼれてはいけない。自分の長所や一時の成功に自慢する時は、それはすでに長所ではなく短所となる。自慢やうぬぼれは成長の行き止まりである。自分を愛する者は、それを外に誇るのでなく、内に大事に抱いて、さらにそれを育てる努力を重ねる人である。

2011-09-12[n年前へ]

「1%の才能」と「99%の努力」 

 9月12日の「n年前へ」から。「1%の才能と99%の努力」という言葉を、さまざまな方向から眺めてみたくなる、こんな言葉。

 …1%の才能と99%の努力から成る、といわれる。その、1%の才能こそが、99%の努力を支えるのであって、ベルモット抜きのドライマティーニがありえないように、ほんの微(かす)かな才能の香りすら見いだせなかったら、努力のきっかけもまた得られないではないか。1%が重要なのだ。

2012-01-18[n年前へ]

「高校・大学の頃の自分」に送る「短く具体的なメッセージ」 

 Shiroさんの「知的なツール、努力の方法」から、"I'm not as smart as I thought I was. "(日本語訳:僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった)を読んだ。

 悩む高校生に対して返されたMIT卒業生によるアドバイスを、高校生だった頃の自分が読んだとしたら、間違いなく「どうすればいいのか、全然わかんないよ…」と思うだろう。 「…意味分からないし。もっと、短くて・具体的に何を・どうやればいいか教えてくれよ」と感じるに違いない。 あるいは、「高校の卒業生総代に選ばれなかった」とか「MITに行けなさそうだ」という(天上界の)高校生の悩みに対して、「頭のいいヤツはこれだからよー」と斜に構えたコトを考えるだけかもしれない。

 「MIT卒業生によるアドバイス」は昔の自分には絶対に届かない。 だから、高校生だった頃の、そして大学生になった頃の(他の誰でもない)自分自身に向けて、短く・具体的なメッセージを書いてみることにした。 そのメッセージは、たった2つだけだ。

 1番目のメッセージは、世界(つまり、自分の先にある未来)は「わからない」ものがたくさんある、ということだ。 だから、「ぼくの頭ではわからない…」と感じ、自信を失い・不安になるような状況は、もう数え切れないくらい何度も何度も繰り返し訪れ続ける、ということだ。 それまでに獲得した「(特定の)力・道具」だけでは、乗り切れそうにないように思えるかもしれない時が、それはもう何度も訪れる。 …そんな状況や不安と折り合いをつけ・それに負けずに共存していくために必要な「方法・能力」について書いたのが、次のメッセージだ。

 2番目のメッセージ、それは「好奇心・興味」を持ち、「未来・可能性・したいこと」を想像し・見つけ出す心を持て、ということだ。 それが、どんなにくだらなく思えることでも、何か「自分が楽しくなる・それをやりたくなる・そこまで辿り着きたくなる」ものを夢見て・焦がれる心を大切にしろ、ということだ。 「好奇心・興味」や「未来・可能性・したいことを想像し・見つけ出す気持ち」が大切でとても有効だということを、その証明を次に書く。

 「手に入れる結果」というものは、どうやら「努力した量」と(やはり)「天性の力」が掛け合わされたものと一致するようだ。 それは、つまりこんな方程式だ。

手に入る結果 = 天性の力 × 努力した量
多少の誤差はあるようだが、この方程式は結構正確だ。 「手に入れる結果」に「天性の力」は関係ないと言ってしまえば、多分それはウソだ。 きっと、それは間違っている。 「手に入れる結果」は「努力した量」でも決まるが、「天性の力」にも比例する。 同じ時間努力しても「手に入る結果」は人それぞれ違う。 そこには確かに「天性の力」が関係している。

 「天性の力」を意志で変えることができないのであれば、その分「努力する量」を増やせばいいという言い分は多分真実に近いのだろうと思う。 …しかし、「努力する量」をただ増やせばいいなんていうメッセージを他ならぬ君に送るつもりは全くない。 それでは、ただの精神論で、その精神論を実践する根性も忍耐力も、残念ながら君は天性持ち合わせていないということを、(君と同じ本人である)私が一番よく知っているからだ。

 重要なヒントは、上に書いた方程式だ。 この方程式は、「右辺が左辺を決める」と読めるかもしれないが、それと同時に「左辺が右辺を決める」とも読むことができる。

努力する量 = 手に入る(だろう)結果 / 天性の力
この方程式に登場する「定数」は、実は「天性の力」だけだ。 「手に入れる(だろう)結果」と「努力した(する)量」は、それは間違いなく「変数」だ。 「努力した量」で「手に入れる結果」が決まるとも言えるが、それとは逆に、「手に入れる(だろう)結果」次第で「努力する(できる)量」が決まる、とも言える。 つまり、「手に入れる(だろう)結果」を、豊かな想像力・妄想力で描いて・それを欲すれば、「努力する量」はいくらでも増える、ということだ。

 「天性の力」を増やすことができなくても、「手に入れる結果」…その楽しさ・面白さを想像し拡大することは、無限にできるはずだ。 タダなのに無限に使うことができるという存在、それが想像力だ。

 努力した量が手に入る未来を決めるんじゃない、無限の好奇心・興味・未来や可能性を想像して見つけ出す心・自分が楽しくなる何かを見つけ辿り着きたいと欲する心…それが、「無意識のうちに努力する量」を限りなく増やし、そして未来を作り出していくんだ。 だから、世界を見て・未来を想像して・くだらない好奇心やささいな興味を大切に持ち続けて欲しい。 それらは、不確実で・わからないことばかりで・変化し続ける世界の中でも、いつだって、その先へゆっくりと歩き続けようとする「原動力」になるはずだ。

 さて、こんなメッセージを(年の離れた)君に送った理由は、もうバレているに違いない。 つまりは、21世紀ののび太(の子孫)が20世紀にドラえもんを送った理由と同じようなものだ。 21世紀を歩く未来の僕を作り出すだろう20世紀にいる君が、「夢を見て・何かを手に入れたいと思う欲望・気持ち」を少しでも増やしてくれるといいなと…君の未来は他(?)力本願に願っているわけだ。

 未来を作る「原動力」は、未来に対する無限の欲望や想像力だ。 未来を夢見て、自由自在に描き出し、そこへ辿り着きたいと願う力を、大事に抱えて続けて欲しい。



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