2006-09-09[n年前へ]
■G.ポリア著「いかにして問題をとくか」
G.ポリア著(柿内賢信訳)「いかにして問題をとくか」を読みました。数学の問題などを解く・答えを決定するために「どのように考えたら」よいかが、実例を示しながら簡潔に書かれていて、なかなか面白く読めました。そこで、そこに書かれていたことを、スライド1枚に(私なりの解釈で)まとめ直し、ここに貼り付けておきます。
読みながら、「わからないことは何なのか?」がちゃんとわかれば、つまり、「求めたいものを他の言葉で説明すること」ができさえすれば、問題を解くことは(多くの場合)できるのかもしれない、と思ったのです。
■ようやく納得「ヒューリスティクス」
「いかにして問題をとくか」を読んで、ようやく「ヒューリスティクス(発見的論法)」というものの意味がわかった気になりました。
この本は、発見的(heuristic)と呼ばれる研究に基づくものである。
論証的論法: AならばBであるとき、Bでなかった → Aは間違いである"経済は「感情」で動いている"友野典男 明治大学教授にお話を聞いた時、「ヒューリスティクス」という言葉が頻出しました。けれど、原稿にする際には、「ヒューリスティクス」という言葉は出さないことにしました。なぜかというと、インタビュー時および記事作成時に「ヒューリスティクス」という言葉を他の言葉で言い換えることができなかったからです。意味をはっきりさせられない言葉を使うのはちょっと…と感じ、「ヒューリスティクス」を削ってしまいました。だから、今の時点でインタビューと記事書きをやり直せば違う感じの言葉&話になったかもしれない、と少し残念に思いました。
発見的論法: AならばBであるとき、Bだった →Aは正しいらしい
ところで、次の「発見的(heuristic)」に関する60年前の言葉もなかなか面白いです。
この種の研究は今日ではあまり流行らないが、その過去は長いものであり、幾分かの将来性があるものといえよう。
"How to Solve It" George Polya@1945
2007-09-09[n年前へ]
■「ヒューリスティクス」と「焼き肉」と「ビール」
NTTがテレホンカードを導入した頃、20年くらい前、KORGのM1を抱えながら、武蔵野線に乗って初めて柏に行った。夏休みを迎える頃、「運河」近くで2,3日過ごしたような気がする。朝から晩まで技術工作をして、夜は運河へ蛍を見に行って、確か2,3日の時間を過ごしたような気がする。
70年前の「いかにして問題をとくか」を読んで、ようやく「ヒューリスティクス(発見的論法)」の意味がわかった気になりました。その時のいつかの早朝に、ゴミ捨て場でFtbというカメラを拾った。1年もしない内に、そのカメラは永眠したけれど、そのカメラには色んな影響を受けた。少なくとも、その後の20年くらいは、そのカメラに影響を受け続けた。
人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですからそれから何年も経ってから、繰り返し柏近くへ行くようになった。その近くで、1月半ほど過ごしていたこともある。午前の5分間の休憩と、45分間の昼休みと、午後の7分間の休みを経て、いつも夜には中華料理屋でビールを飲んだ。
今年の初め、東京大学大学院 新領域創成科学研究科で話をしてきました。その夜は、基盤情報学専攻の某研究室の人たちと焼き肉屋で美味しいビールを飲んでいたわけですとても美味しかった焼き肉は、ふと思い返してみれば「牛鈴」だった気もする。 いや、違ったかもしれないけれど、茨城の県道沿いにある、焼き肉屋までテクテク歩いて行った気がする。…つまり、それをひとことで言うならば、つまりは「最高に美味しい焼き肉」だ。
ヒューリスティクス(発見的論法) AならばBであるとき、Bだった→Aは正しいらしい確実なことも、100%正しいことも、きっと世の中には存在しない。そんな世界で、ポリア教授が書くヒューリスティクス(発見的論法)は、とても新鮮に響く。
"How to Solve It" George Polya@1945
なにか心配事があってもだいじょうぶですよそれから、繰り返し柏に行くようになった。行く目的や、行く立場は変わっていったけれど、何度も何度も柏へ、あるいは、柏近くへ行くために柏を通り過ぎた。
「女性を感じさせないから(感じる前に終わるし)、体内を(女の子になるX精子が生き残りやすい)酸性のまま」にしておけるし、「ゴールから遙か遠くから、精子耐久レースを始めることができるから、酸性に弱い(男の子になる)Y精子を最後まで行かせない」ことができる…というような告白が「遺伝的アルゴリズム、遺伝的プログラミング、人工生命」というキーワードとともに語られたのです。「こんなものがあったらいいな」と思うことがある。けれど、そんな時「そんなものがあったらいいな」と思ってくれる人がいないことは多い。「そんなもの」が「どんなもの」なのかわかってくれる人はいないのが普通の当たり前だ。
だって、人には 限界があるのですから人にはできないことも あるのですからだから 一生懸命がんばったらあとは神様に おまかせすればいいのですそんな時、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを実際に作り出すことになる。そのための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。作り出した瞬間はほんの一瞬で、その峠を過ぎる一瞬が訪れたと同時に、その瞬間は過去の事象に変わる。だから、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを作り出すための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。
だって、人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですから
2012-11-07[n年前へ]
■「答えられる(だけの)力」は必要ない
「やりたいこと」はあるけれど、そのやりたいことを的確に表現する「コード」を書いたなら、(機械でない)人に頼む仕事自体が消え失せてしまうというジレンマがあります(未来に生き残る職業は「プログラミング言語・環境開発者」と「ニッチで・けれど高価なものを作る人」)
それと同じように、的確な「問い・質問・問題」を一度作ったならば、その「問い」に対し(機械以外の)何かに答えてもらう必要はほぼ消え失せてしまう、というジレンマもあります。なぜかというと、的確な「問い」というものは、「答えると意味あることを、答えうる範囲・解きうる条件に落とし込む」ものであって、そのような「問題」を描き出してしまったならば、当たり前のように、その「問題」の答えは導き出されるものだからです。
だから、「やりたいこと」を的確に表現したならば、(後は機械に任せれば)やりたいことが消えてしまうように、「解くべき問題」を的確に表現し得たなら「問題を解くための作業」の過半数は終了しているというようになることも多いような気がします
本当のところ、「答える」ためには「的確な問い」を描くということが必要十分条件なのではないか、と思います。だから、「問題を出されたら、答えることができる能力」なんて(その問題が作り出された段階で、すでに問題は解かれているのですから)実は無意味だ…と感じることも多いのです。
必要なのは「問い・問題」を手にするための力で、「答えられる(だけの)力」ではないだろう…と思うことが多くなりました。
人間は、決してあきらめてはならない。
「ロボット (R.U.R)」 カレル・チャペック