2005-12-29[n年前へ]
■「記録」によって「記憶」をなくした'70年以降生まれ
昨日に続き、破り取ってポケットに入れたページの一つが、坪内祐三と福田和也の「これでいいのだ」
ポストモダン以前の'70年生まれくらいの人たちまでは、まだ「記憶」というものがわかるけど、それ以降に生まれた人たちにはわからない。 本来「記憶」はどんどん書き換えられていくものだけど、過去がビデオに残されていたら、それはいつまでも懐かしい「記憶」にならず、単なる「記録」のままでしょ。今の32〜33歳を境にした上下で、ものの感じ方に断絶があるのは、そのへんも一つの理由だと思うな。
2008-05-21[n年前へ]
■「言語の特徴」と「古池や蛙飛び込む水の音」
言語はそれぞれ個性を持っていて、それを学ぼうとする私たちは、それを新鮮に感じたり、それを面倒だなぁ、と感じたりする。たとえば、名詞ごとに性別があったり、複数形単数形で言葉が姿を変えたりする。あるいは、音の大きさでリズムが刻まれたり、あるいは、音の高低で言葉の意味が変わったりする。そんな特徴は、私たちを悩ませると同時に、不思議な面白さも感じさせる。
今週号の週刊SPA!の坪内祐三×福田和也「これでいいのだ!」を読んでいて興味深く感じたのが、松尾芭蕉の「古池に飛び込んだ蛙は一匹か?100匹か?」という話題だ。自然な日本語では、複数形と単数形をほとんど区別しない。だから、「蛙」という言葉が書かれていても、その蛙が一匹なのか、それとも100匹なのかはわからない。そして、「水の音」と書いてあっても、それが「たくさんの水音」なのか、「ひとつ響き渡る水の音」なのかは、わからない。
古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉
この「蛙」をラフカディオ・ハーンは"frogs"と訳し、正岡子規やドナルド・キーンは、"a frog"と訳したという。古池の水面に一匹の蛙が飛び込み水音が静かに聞こえるのと、たくさんの蛙が次々と水中に飛び込んでいき、その音が次々と響き渡るのとでは、全く違う景色である。全く違う世界だ。「終わり」と「始まり」という言葉と同じくらい違う趣(おもむき)の景色だ。
蛙が何匹であるのか、その水音はどんな響きなのか、それは読者の心が決める。その自由度が、曖昧であると同時にとても良い。
2008-08-18[n年前へ]
■午後に降り注ぐ、一瞬の激しい雨の気持ち良さ
週刊SPA!を読んでいると、福田&坪内の「これでいいのだ!」に、こんな一文が書かれていた。
突然バーと大雨の粒が来て、その中をスーパーカブが5人くらい載せて「バルバル~」と走る。暑さはしんどいけど、あの毎日のスコールの解放感は気持ちいいよ。
スコールには、”カタルシス”があるんだね。突然大雨が来て、「あ、逃げよう!」と雨の中を走ったりしてると、パッと収まって。それだけで心地がよくなるんだね。
京都には春と秋がない、と京都に住んでいたときには思っていた。寒い冬が過ぎると、桜の花咲く心地よい春はほんの1週間ほどで終わり、アイスクリームが欲しくなる暑い夏が始まる。そして、夏が終わるとともに、すぐに寒い冬になる。紅葉は続いていても、その頃の空気は秋というより初冬のような肌寒さになっている。
ある初夏の昼、授業にも出ず SINITTA の TOY BOY か何かをを流しながら、大学のキャンパスでウルトラマンか何かの仮装をして仮装して踊っていた。「気恥ずかしさ」とか「一体自分は何をしているんだろう?」とか感じたりしつつ、中途半端に踊っていた。
その時、空は晴れたまま大雨が降り出した。その一瞬のスコールに打たれた時の気持ちよさ、気持の吹っ切れ具合は今でも覚えている。そして、その時も今もその「感じ」を言葉で表現することも、上手く伝えることもできずにいる。
日本はやはり亜熱帯だ。だから、亜熱帯が持つ気持ち良いスコールは、やはり日本にもある。一瞬のスコールに打たれ、雨やどりをして、雨がやんだ後に動き出す感覚は本当に気持ちが良い。何の根拠もなく、「これでいいのだ!」と感じさせる何かがあるように思う。
He ain't got money.
People think it's funny.
He gives me everything I need.
2008-08-19[n年前へ]
■「これでいいのだ」
週刊SPA!の福田&坪内による「これでいいのだ」という連載のタイトルから、ふと、タモリの赤塚不二夫への弔辞を思い出した。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。…この考えをあなたは見事に一言でいい表わしています。すなわち、「これでいいのだ」と。
弔辞の際に持っていた紙が白紙だったのか、それともアウトラインが書いてあったのか、そんなことは結局のところ、どっちでもいい話だ。もしも、紙にすでに何か書かれていたとしても、その瞬間に何か思ったことがあれば、その思いは言葉にされたことだろうし、紙に何も書かれていなかったとしても、きっと少しだけ違う、けれどやはり同じような言葉になったに違いない。
『天才バカボンのパパなのだ』という作品で別役実が書いたあの台詞はなんだったのだろう。一人がシャツを脱いで裸になる。するとそばにいた者が、不意にこう言うのだ。「私も脱ごう」
宮沢章夫 from 一台のロボットをつくるには、どれだけの知恵が必要だろう?